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海に来ても、悠仁はあまり水際に近づかなかった。デートの時くらい砂浜でのんびりしたい、と言っていて、カナヅチ、と軽口をたたいた。全然カナヅチじゃなくて、むしろ泳ぐのが得意なくらいだと知ってのことだ。彼が水に入らないのは、泳ぎ始めたら夢中になって、泳げない私を置いてけぼりにしちゃうから。私と一緒の時間を一秒も無駄にしたくないから、というのは、手をつないでいればすぐに分かった。
二人の間を、オレンジ色のイヤホンから溢れる音楽がつなぐ。右耳は私、左耳は彼。つないだ手には音楽プレイヤー。空いた耳は、ビーチで遊ぶ人の声や、波のループ音を聞いている。そうしていれば、爽やかなポップスがしゅっと微炭酸みたいに弾けて、私は海水の中を漂い始める。
「きよみ」
彼は私をそう呼ぶのが好きだった。きっと、そう呼ぶことで彼なりに特別意識を感じていたのだと思う。私の、彼から遠い方の耳が、その声をいつも喜んでいた。
「ねえ、知ってる?」
砂浜に、細い流木で私たちの名前を彫った。砂に字を書くことに慣れた、自然な筆遣いだった。
「この砂浜に名前を書いて、一週間残っていれば二人は永遠に結ばれる」
「本当? 初めて聞いた」
「うん。さっき俺が作った」
バカ、と砂を顔にかけた。そのまま湿った砂をかけ合って、海の方に入って、水をかけ合って、倒れて、抱きしめ合った。キスは、砂のざらついた感触と潮の味がした。
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