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「ユキ」
「……言うな。もういいだろう。もう十分だろう。アルファのお前は全て持っている。それなのに、お前は私から持っていこうっていうんだから」
私はしゃがみ込んだ。マノメを罵倒しようとすると、脳裏に、マサキが健康職員に連行された日が、鮮明に浮かび上がってくる。
国民健康維持センターの者です。健康診断を受けていないオメガ国民は、今すぐ受診して下さい。
社会が暗く、不穏な空気を形成し始めていた時だった。それでも私達は、どこか楽観的だった。あの日だって、朝、お互いの職場に出勤しようとキッチンでバタバタしていた。いつも通りの月曜日。これが、この先ずっと続く線上にあるものだと、思い込んでいた。
チャイムが鳴って、玄関先でマサキが仕事場に連絡を、午前休をと言っていた。顔を出すと、困惑したように、健康診断の話をしてきた。すかさず〈職員〉が、お時間は取らせませんのでと言ってきたので、私は見送った。
そのまま職場に行くから、わかった。今日の夕飯、チンジャオロースで良い?了解~いってらっしゃい。うん、行ってくる。
二度とマサキは帰ってこなかった。どうしてあの時、と私は何度も自分を罵った。あの時、疑う気持ちが一片でもあれば。マサキと一緒に国外に逃げていれば
私は濁流のように涙が押し出されていく瞳で、マノメを睨みつけた。マサキがこいつの子どもを産むかもしれないと想像しただけで、叫び出したくなる。マノメの冷たい美貌が、こちらを見下ろしていた。
「……そうだね。戦争も悪くない。僕はやっと欲しかったものが手に入ったのだから」
「……」
「大切にするよ。うんと大事に、するからね」
ふわりとマノメの匂いが強くなった。私は涙に塗れた目をぎゅっと閉じて、マサキ、と心の中で呼びかけた。
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