ユキ

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「マサキ」 「M―0421は僕の子を産む任務を課せられている。今日でマノメ家に来て、五十日目だけど、そう、僕と彼は一週間、オメガの発情時期にコミューンに行って、監視カメラ付きの小部屋でセックスするんだ。大事な任務だからね。これはアルファとオメガに課せられた、大切な任務だ。おわったら、健康職員が記録を取っていて、アルファである僕は最低でも二回以上の射精が好ましいって――」 「やめろっ」  私は衝動的に、マノメのネクタイを掴んでいた。 「やめろやめろやめろっ。口を閉じろっっっヨシユキッ」 「ああ、やっと名前を呼んでくれたね。ユキ」  がくがくとネクタイを揺さぶっているのに、マノメは嬉しそうに微笑んだ。子ども時代から変わらない、自然な笑みだった。胃液が逆流して、ムカムカする吐き気に襲われた。私は両手をテーブルに付いて、項垂れた。 「マサキ」 「誰だい?マサキって、僕に派遣されてきたのはM―0421だよ。オメガは神聖な母体として、新しい名前を授かるんだから」  鼻歌でも歌う様な上機嫌さで、マノメが崩れたノットを直した。 「欺瞞は辞めろ」  叩きつけるような声を出すと、マノメがきゅっと口を結んで、私と向かい合った。 「偶然なんだよ。彼がうちに来たのは」 「そんな嘘を信じられるほど、能天気な頭をしてないんでね」 「本当だよ。それにもう君は、例えばそう、僕に派遣されてきたオメガが、かつて君の恋人だったオメガだったとしても、それを確かめる手段無いのだから」  私は力なく椅子にもたれ掛かった。マノメの言う通りだ。私には、何も無い。何もできないベータだ。ぼんやりと手元を見ると、白いテーブルクロスに、茶色い染みが出来ていた。コーヒーの染みに、彼との思い出が滲んできた。
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