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本当に一晩かけてワインを舐めつつ住人についての情報を拝聴した英知は、いつの間にか近くのソファーで眠り込んだようで、昼過ぎに目覚めて一番に本間が通常通りに出勤したと聞かされ、舌を巻いた。
姉とも親しい筈だ・・・と即座に思ったのは、おそらく森本に読まれている。
「一応、会社へ病欠の届けを出している以上、診療の形跡は残さないとね」
さらに翌日の午後、森本はそう言うなり英知を乗せて車を出した。
「俺はもう十分に元気だし、そもそも入院していないのって、詐称にならないんですか?」
一昨日は、二人に勧められるまま料理を食べたし、ワインもそこそこ飲んだ。とても病気療養という名目は使えない。いきなり休暇を取ってもうすぐ十日を数える。
「うーん。仕事も気になるよねえ。君は会社で活躍していたんだから・・・」
活躍、と言われて英知は眉をひそめた。
「英知くん?」
景色がどんどん後ろに流れていく。
「活躍なんて、していたかどうか。俺がいなくても同僚たちは困りませんよ。俺が突然辞めたとしてもすぐに替えがきくようなものだったと、思い知りました」
「英知くん・・・」
活躍しているつもりだった。
入社以来明確に業績を上げ、会社にとって必要な人材になれたと思い込んでいた。
だが実際はどうだ。
一番にはじき出されたのは、自分だ。
「会社、辞めようと思います」
口に出してみると、すっと霧が晴れたような気がした。
「俺には、あの会社が必要だった。キャリアと肩書を手に入れて、やりたいことがあったから」
景色が止まる。
「・・・やりたいことって、なに?」
気が付くと、もう病院の敷地内に着いていた。
「言えません。今は、まだ」
とても恥ずかしくて、口にはできない。
「英知くん・・・。あのさ」
シートベルトを外し、森本が運転席から身を寄せてきたその時、携帯電話のメロディーが流れた。
「あ、ちょっと、ごめん・・・」
取り出した画面をちらりと見た森本は、すぐに耳にあてて会話を始めた。
「麗佳ちゃんどうしたの?今ちょうど駐車場なんだけど・・・。え?親父が?」
一瞬にして、森本が色を失っていくのがわかる。
「わかった、すぐに上がるから。母さんにもそう伝えて。すぐだから!」
振り向くなり、英知の手を掴んだ。
「ごめん、英知くん。俺の親父が・・・。ええと、ここに前から入院している親父の容体が急変したみたいなんだ。悪いけど、診療は一人で行ってくれる?多分受付に話は通っているはずだから」
痛いほどに掴むその指先は氷のように冷たい。
「ごめん、英知くんも大変な時なのに…」
小刻みに震える唇が、切なかった。
「温さん」
たまらなくなって頬に手を伸ばし、唇を重ねた。
まるで血が通っていないかのような森本の、少し肉厚の下唇をあやす。
ゆっくりと押し当てて熱を分け互いの温度が混ざり合ったことを感じてから、静かに離した。
「温さん」
ゆるゆると、重たそうな睫毛を上げる森本を見つめる。
「大丈夫だから」
無責任な言葉だと、分かっている。
「きっと、大丈夫だから」
でも、他に言葉が見つからない。
「もし許されるなら、俺もそばにいていいかな」
「・・・でも」
乱れかかる前髪の隙間から黒くきらめく瞳に、胸が絞られるように苦しくなる。
「頼むから、温さん・・・」
額に、懇願と吐息を乗せた。
「一緒に、行こう」
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