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豆のスープがあった。その向こうに女がいた。浅黒い肌、黒髪、黒い瞳。初めて見た顔ではない。だが、素性も名前も思い出せない。女はしばらく彼の顔を覗き込んでいたが、やがて悲しげに視線をそらした。
「すまないが、俺は行かなければならない」
目をそらしたまま女は薄く笑い、
「あなた、起きるたびに同じことを言う」
そう言った。
「どこへ、何をしに行くのか、もう思い出せた?」
「自分が何を忘れたのかも思い出せない。ただ、行かなければならないことだけは知っている」
呆れたように女の目が笑う。
「とにかく食べて」女は匙をとり、豆のスープを掬うと、彼の顔に近づけてくる。
「大丈夫だ。自分でできる」
「起き上がれもしないくせに? あなた、雷に打たれたのよ。生きてるのが不思議。馬が身代わりになってくれたのね」
「その記憶は、なんとなく残っている」
「それだけじゃ、何処にも行けやしないわ」
彼は自力で上体を起こそうとした。情けないうめき声が出たが、身体は一インチも動かなかった。
「言ったでしょ、生きてるのが不思議って。でも、死なないわ。ドクト-ルがそう言っていた。記憶の混乱も、いずれ収まるって。だから、今は私の言うことを聞いて。豆のスープを食べなさい、ゆっくりとでいいから、元気になって。さあ、口を開けて、カルテロ」
カルテロ。
それが、彼の名前であるらしかった。
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