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ヘモシアニン
「かつて私は、イカに憧れていたの」
と彼女は言って、水溜まりを蹴飛ばした。
「はぁ」
と僕は気のない相槌を返した。
「とはいえ、この件については、若干の補足説明が必要なのではないかと思うわ」
「別に、無理に説明しなくても良いと思いますけど」
「まず第一に、私は空に憧れていたの」
「ええ、まあ、はい」
彼女は夕立の雫が残る傘を振り回しながら、僕の進言も取り合わず、イカがどうとかいう話を始めた。
「あれは三歳の頃、幼稚園にも上がる前。私の背は、私の周りにいる誰よりも低かった。飛び跳ねても父の頭には届かない。テーブルに登っても母の手で優しく下ろされる。祖父も、祖母も、伯父も、叔母も、七つ年上の兄も、隣の一家も、郵便屋さんも誰もかも、私よりずっと背が高かった」
「三歳児ですからね」
同じ年頃の友達はいなかったんだろう。
「だから空を飛びたかった」
それは文字通り飛躍したような論理だったけれど、まあ、わからないでもない。
「それで、イカは?」
だから僕も、話の続きに興味を持った。
「最初は鳥になりたかったの。黄色いオウム」
「はい」
「でも、鳥は翼を持つ代わりに、お手々が無いでしょう」
「無いですね」
「私はその時、お絵描きも好きだったのよ」
確かに、翼でペンなりクレヨンなりを持って、絵を描いている鳥と言うのは、ついぞ見た覚えがないように思う。
「次は蝶々に目を付けたの」
「なるほど、翅の他に足が六本もある」
「だけど蝶々はクレヨンを持てないでしょう」
「そりゃそうですね」
妙な所だけ拘るのだな。幼児と言うのは、そういう所があるけれど。
「そこでイカよ」
「はぁ」
「イカは足が十本もあるし、ペンを持つことも出来るって言うし」
「羽はありませんよ?」
「十本も足があるなら、二本くらい羽になったって不思議ないでしょう」
そういうものだろうか? と僕は頸を傾げた。
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