2 猪田苑子の恋

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2 猪田苑子の恋

 この店に看板はない。つまり、紹介されない限り、一見の客は来ない。しかし、本日の客、猪田苑子(いのだそのこ)は例外であった。 「何を飲まれますか?」 「あ、あ、オレンジジュースを……」  憧れの樫山宗一を目の前にして、猪田苑子の手は緊張で震えていた。 「お酒は飲まれないのですか?」 「飲めなくは、ないのですが」 「じゃあ、オレンジを使ったカクテルはいかがです?」 「あ、えっと、はい。じゃあ、そうします」しどろもどろで苑子は答える。  苑子は駒込に邸宅を構える、生粋のお嬢様だ。さらにはまだ大学生であり、こんな深夜に、繁華街で一人で酒を飲むのは初めてのことだ。  しかし苑子の胸は、不安よりも幸福感で満たされていた。この瞬間を、どれだけ夢見たことか。  * * *  樫山を初めて見たのは3ヶ月ほど前、たまたま通りかかった、中目黒のダンススタジオだった。 「苑子さん、大変申し訳ございませんが、少々ここでお待ちいただけますでしょうか」
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