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唐突に車を止めた運転手は、そう言って車から飛び出していった。止める間もなかった。あとで訊いたら、腹痛でトイレに駆け込んだのだそうだが、とにかく苑子は車に一人残された。
待ち惚けをくわされた苑子は、停車した車の窓から外を眺めた。その視界の先に、ガラス張りで中が丸見えのダンススタジオがあった。
そこにふいに現れた、一人の男。それが樫山だ。そのしなやかに踊る、均整のとれた美しい姿に、苑子は一目惚れした。
実は樫山は、副業として週に2日だけ、雇われのダンス講師をしている。主にジャズダンスとブレイクダンス。運動不足も解消でき、良い臨時収入となっていた。
苑子は、その姿をガラス越しに眺めるのが好きだった。毎週、散歩のふりをして、1階にある彼の働くダンススタジオの前を通り、彼の姿をこっそりと眺めた。
そんなことをせずとも、苑子自身がダンスを習えば、もっと樫山を間近で見ることが出来るのだが、苑子にとって激しいダンスを踊るなど、火星に行くことと大差ないほどの芸当だった。
そこで苑子は、ストーカーのように樫山のあとをつけ、さらには探偵を雇い、ようやくこのビルにある樫山の店を知った。
* * *
「カクテルの味はいかがですか?」
「美味しいです。この生ハムのサラダも……」
「それは良かった。このサラダ、すごく簡単ですよ」
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