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男は項垂れる樫山の横に立った。
「消えるのは、その鬱陶しい能力だけと、俺はそう信じている」
男は、自分に言い聞かせるように言葉を並べる。
「それに、もし記憶を失ったとしても、また新しい人生を一から始めればいい。それよりも、記憶が残った状態で、当たり前にあった能力だけが消えることの方が心配だ。生きがいを失うかもしれない。だから、君が能力を消したくないと言うなら、無理強いはしない。俺は再び元いた何もない世界へ戻るだけだ」
「君は、それでいいのか? 存在が消えるってことは、つまり……」
男は樫山に背を向け、壁へと歩を進めた。
「ずっと、悩んでいた。君に会うまで、正直怖かった。消えたくないと思っていた。君に取って代わりたいと思っていた。でも今はそうは思わない。何も怖くない。しっかりと感じるんだ。俺は君で、君は俺だって」
その時、唐突に店の明かりが消えた。男が店の明かりを消したようだ。その行動が合図であると、樫山にはわかった。
電子機器の発する小さな明かりと、厨房から聞こえてくる冷蔵庫のコンプレッサーの音だけが、ここが現実世界なのだと、樫山に実感をもたらした。
樫山は闇の中で、ただじっと合図を待った。しばらくすると、自分の声がどこからか響いてきた。
――そろそろ時間だ。由梨がやってくる。
その声は、もう空気を震わせてはいなかった。
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