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数歩手前で立ち止まるとテーブルの上にグラスを置く。その手に視線を感じてピタリと動きを止めた。
彼が少しだけ距離を縮めて来たのが分かり、年甲斐もなく胸が高鳴った。
お互い、テリトリーへどうやって入っていくか牽制し合っている。この感覚が久住は好きだった。
いつもなら簡単には侵入させない。企業のパーティーで品定め知ることはあっても、手を出せばどこから情報が洩れるか分からない。口の堅い売り専を頼む方が安全だし、時間制限のある関係の方が楽しめる。
久住にとってそれはゲームのようなものだ。
しかし今日は何か違う気がした。
向こうも久住の視線に最初から気が付いていた。それを敢えて無視していたのだ。
「もう一杯、いかがですか?」
先に声を出したのは彼。それは透き通るような、聴き心地の良い声だった。
この声が喘いだらどんな風に啼くのか。久住の鼓動はますます大きくなった。
「君もどうだい?」
止めていた指を優雅に動かしグラスの淵を人差し指の腹でなぞり円を描く。彼の視線がそこに移動するのを横目で見遣ると僅かに舌で自らの口唇を舐めるのが見えた。
「アルコールより美味しいものがありますよ」
「へぇ……どんなものかな」
少しだけ空いていた距離を彼が一気に詰め、久住の肩にそっと手を置いた。
「先に出てます。少ししたら出て来て下さい」
「……何処へ?」
耳元で彼はクスリと笑って、久住に背を向けて会場を出ていった。
彼が出ていってから十分程してから久住も会場を出た。本当に彼が待っているのか少し疑いながら。
エレベーター前までゆっくりと歩いて行くが彼の姿は何処にもない。揶揄われたか、と溜め息を吐いてエレベーターのボタンを押そうとすると後ろから別の誰かの腕が伸びてきて上の階へ行くボタンが押された。
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