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第三章 横浜 薫香商会。
その日、保鉄名市蔵は、早朝の横浜にいた。
前の日に、月山監督や柔道部の諸先輩方に、下野毛章子教授の事や、下野毛研究室について、あれやこれや散々聞かれて、一寸辟易していた。
あの時に、何をされたか?何をしたか?事細かく話した挙げ句、下野毛章子教授の、趣味や嗜好物は何か?研究室の女子研究員達の、どんな感じだった?
散々尋ねられて、返事に困ってしまった。保鉄名は単に研究の一端を手伝っただけで、下野毛研究室の全てを知っている訳ではない。
「おいモテナイ、今度章子さんから誘いがあったら、俺も連れていけ!」
下野毛研究室の事を、根掘り葉掘り聞き出された後に、月山監督が言った台詞が、耳にこびりついていた。
そんな事があったその日の夜、保鉄名のスマホに、下野毛章子教授からラインがあった。
下野毛教授から、ラインのアドレスを渡されていた、保鉄名であった。
その下野毛教授から、その日の夜に、連絡があった。
「次の休日に、横浜駅の赤い靴の少女の前へ、午前十時に来られたし。」
ナンタイは神奈川の藤沢市にあった。モチロン保鉄名は、ナンタイの学生寮に寄宿していて、其処が生活の拠点になっていた。
保鉄名は、寮の者に気付かれないように、朝早く寮を出て、小田急藤沢駅から、横浜へ移動した。
朝の五時過ぎに寮を出て、横浜に付いたのが、六時過ぎ。
完全に早すぎではあるが、早朝の横浜の町をフラツクのも、悪くはない。
少し散策を気取るかと、各私鉄の鉄道が乗り入れている、駅舎を出て、横浜の街へと、歩み出た。
保鉄名市蔵自信は、千葉県民だが、祖父は横浜生まれの、横浜育ち。
「自分は根岸の生まれで、ハマ育ち。横浜港は、絶好の遊びだった!」
其れが祖父の、口癖だった。
実際には、根岸は港からは、結構離れているが、それ程遠いと言うわけではない。其れに根岸には、漁師の家々が、昔から点在していたから、無関係ではない。
祖父の若かりし日は、(昭和三十年代)まだまだ横浜も漁業が盛んで、保鉄名の祖父も、漁師の一人で、毎日漁に出ていた。
横浜駅東口を出ると、目の前は国道15号、所謂一国で、祖のまま西に歩くと、中華街のある元町に行くが、こんな朝の早い時間じゃ、何処の店もやってはいない。
保鉄名は一国を突っ切って、南に歩き出した。
目の前に高いタワービルが見える、ランドマークタワーだ。
取り敢えず、其れを目指して歩き出す。今七時過ぎだから、約束時間までは、たっぷり間がある。
みなとみらい21。
近未来を彷彿とさせる町並みは、ある意味時代遅れだ。
実際みなとみらい21の、一応の完成は1995年。現在も色々と何かしら工事している。
もしかしたら、永遠に完成しないかもしれない。
南に向かって、しばらく歩いていたら、大きな橋に出た。此の橋を渡ると、赤煉瓦通り。港情緒溢れる、横浜の名所のひとつだ。
その赤煉瓦通りを歩いていたら、正面に見知った顔が現れた。
「あら?モテナイ君?」
意気なり飛んでくる、聞き慣れたフレーズ。問題は其れを放った人物である。
「あ、下野毛教授?」
横浜駅の少女像の前で、落ち合う約束をしていた相手と、横浜の街中で、バッタリと出くわしたのだ。
「こんなに早く、出てくるなんて?何か有ったの?」
下野毛章子が、心配気に保鉄は名の顔を覗き込む。
「あ、いや、約束の時間に出ると、他の寮生が煩いから、早めに出てきました。」
そう言うと保鉄名は、バツが悪そうに、頭を掻いた。
ふと、何か微かな甘い薫りが、保鉄名の鼻を擽った。
どうやら、目の前の下野毛章子から、漂ってきている。
何故か、鼻より何より、下半身を刺激する薫りであった。
保鉄名の身体が、自然に少し前屈みになる。
「あ、気になる?此の匂い。」
下野毛章子が、意味ありげに微笑む。そして更に、薫りが強くなる。保鉄名の股間が、熱を帯びて来る。更に前屈みになった。
ジリッと、軽く後じさる。
あともう少しでも、下野毛章子に近寄ったら、どうにかなってしまいそうだった。
「そうね、不便だから仕舞っちゃうわね。」
そう言うと下野毛章子は、羽織っていたジャケットのポケットから、透明な小瓶を取り出すと、小瓶の中身を数敵手に取り、掌に馴染ませて、其れで髪の毛を軽く掻き上げた。
不思議な事に、あんなに漂っていたアノ甘い薫りが、瞬時に消えた。其れと同時に、保鉄名の股間の熱が、薄れていく。
「丁度いいわ。今からちょっと付き合って。」
そう言って下野毛章子は、保鉄名市蔵の手を取ると、赤煉瓦通りを、元町方面に歩き出した。
下野毛章子と、保鉄名市蔵は、元町の外れにある、古い店屋の前にいた。
まだ、シャッターが下ろされていて、何のお店だか、分からないが、シャッター上部に古い書体の漢字で、「薫香商会」と、書かれていた。
「此処は、私の実家なのね。」
下野毛章子はそう言うと、シャッター横にある、小さな通用口な扉を開けた。
「さっ、入って!」
下野毛章子は、手早く市蔵を扉の中へ率いれた。
通用口の奥へ奥へと、歩いていくと、スリガラス張りの玄関が現れた。
「おばあちゃん、居る?」
その、スリガラスの扉を開けて、下野毛章子は、扉の奥へ声をかける。暫くすると、奥の襖が開いて、小柄の妙齢な女性が現れた。
「あ、おばあちゃん、おはよう。昨日電話した物、用意できてる?」
子供のような顔つきで、下野毛章子はその女性に聞いた。
「ああ章子かい、やけに早いね?三宝鹿の尾なら……!」
と言い掛けて、その女性は市蔵の顔に注視した。
「イサ?イサじゃないか!」
その女性が、つつっと滑るように、近寄ってきた。
「おお此の匂い、ヤッパリ勇佐ではないか!」
そう言うと、抱きついてきた。
突然の事に、市蔵が棒立ちになっていると、
「あらあら、おばあちゃん違うわよ、この子はうちの学生で、保鉄名市蔵クン。」
そう言って下野毛章子は、おばあちゃんと呼んでいた女性を制した。
おばあちゃん、と呼ばれた女性は、市蔵の顔をしげしげと見直した。
「そう言えば、妙に若いね?」
その女性は、少し下がって、市蔵を見直した。
「坊や、保鉄名と言ったか?保鉄名勇佐を知っているか?」
女性の視線が、熱く刺さる。
「勇佐は、俺のじい様です。」
気を付けの姿勢のまま、市蔵は、そう言った。
下野毛章子の実家、薫香商会は、横浜は元町の外れにある、小さな雑貨店である。
元々は、香料や漢方薬を扱っていたと言う。
其処の、主である李 安水(リ・アンス)はまだ清代のチャイナから、明治末期、父親である李 子兪(リ・シユ)と共に、横浜にやって来た。
清代末期のチャイナは、政情が大いに不安定で、多くの華僑達が海外へ出ていった時代でもある。
そんな華僑達の多くは、アメリカへと移住していったが、他のアジア地域に定住する物達も多かった。勿論、日本にも、多くの華僑達がやって来ていた。
そんな華僑達の一家族が、安一家であった。
安 子兪は、先輩の華僑の伝で、港湾の人足として働き、小金を貯めて、今の地に小さな店を構えた。元々、薬草や香料の知識が有ったので、薬草と香料を扱う店を構えたのだ。
商売はソコソコ上手く行って、大戦時も難を逃れて、彼の地に有り続けた。
「明治末期に、やって来たのなら、あの人は、今幾つ何ですか?」
下野毛章子の作業を手伝いながら、保鉄名市蔵は、目を丸くしながら聞いた。
「つい最近、120歳の誕生日を迎えたと、言っていたわね?」
120歳!どう見ても、アラフィフ。体つきは華奢で、少女の様にも見えたが、品の良い整った顔が、威厳と言うか、歴史を醸し出していた。
其れでも、100歳オーバーには、決して見えなかった。
そう言えば、下野毛章子も、アラフォーなのに、二十歳代の女の子にしか、見えない。
「どんな、一族なんだ?」
市蔵は、小声で洩らしいた。
下野毛章子は、店の奥に設えてある作業場で、香料を作っていたのだ。
「本当なら、研究員の女の子達が、手伝ってくれるんだけど、今日は皆用事が有るらしくて…。」
淀み無く手を動かしながら、今日市蔵を呼んだ理由を、話し出した。
「来月ね、学生会主催で、パーティーがあるんだって。」
下野毛章子の言うには、来月学生会主催で近隣の大学合同の、パーティーが催されるそうだ。
「そのパーティーに、私も招待されてね、其処で特製のコロンを作って、参加したいなぁって。」
各種の葉っぱや、得たいの知れない物質を混ぜながら、嬉々として語っている。
「はい、じゃあこれを磨り潰して。」
色々な材料を、小振りなすり鉢にいれて、其れを市蔵に手渡した。
其れを市蔵は、丁寧に磨り潰していく。
ゴリゴリゴリゴリ……。
20分位、擂り潰していると、
「もう良いわ、其れを此の鍋に入れて。」
下野毛章子の指示で、擂り鉢の中身を圧力鍋の様な、分厚い鍋の中に、ぶちまけた。
下野毛章子がその釜を、CHのコンロに掛けて、タイマーをセット、そして特殊な形の蓋をしっかり被せて、CHコンバーターのスイッチを入れた。
「さて、丁度良い時間だから、朝食にしましょう。」
下野毛章子はそう言うと、掛けていたエプロンを外して、作業場を出て、リビングの方へと歩いていく。
市蔵も、其れに続いた。
差ほど広くない和風のリビングに、座卓が置かれいた。
先にリビングに上がった下野毛章子が、其のまま奥の台所に立ち、お櫃と鍋を抱えて、戻って来た。
「市蔵くん、適当に座って。」
下野毛章子に勧められるまま、座卓の一角に席を取った。
下野毛章子が、お櫃と鍋を座卓の隅に置くと、リビングの隅の茶箪笥から、適当に食器をとりだし、座卓の上に並べていく。
「おばあちゃん、御飯にしましょう。」
と、台所とは反対側の、奥へと声を掛けた。
暫くすると、先程の小柄な女性が、楚々と入って来て、市蔵の正面にそっと座った。
「さっ、いただきましょう。」
下野毛章子はそう言いながら、皿に料理をよそい、茶碗に飯をよそった。
皿の上の料理は、鰯の煮つけ。今は5月だから、煮つけるには、手頃な鰯だ。
食事をしながら、下野毛章子の祖母、李 安水がずっと市蔵を見つめている。
その視線が、妙に熱い。
食事を済ませ、茶を啜っていると、不意に安水が口を開く、
「イサは、元気かや?」
妙に声が、艶っぽく感じる。
「はい、今も千葉で、漁師をしてます。」
市蔵は、少しドキマギしながら、そう答えた。
李 安水。
下野毛章子の祖母で、今年で120歳。と言う事だが、トテモじゃないが、そうは見えない。
艶やかな黒髪を、アップにまとめ、色白の肌は、潤いを保ち、小皺一つ見当たらない。
「安水さんは、じい様とどんな関係で?」
市蔵は、このお婆さん?に、興味が湧いていた。
「イサは、良い男じゃった。アレ程の男、滅多に居らぬの。」
安水の顔に、赤みが差している。瞬間、安水が年頃の少女に見えた。
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