第3章

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「全部から逃げ出して、とっとと忘れようと思った。だけどできなかった」  そもそもマネージャーという仕事を選んだ時点で、中途半端だったと今になって思う。本当に忘れたいなら、すべてをなかったことにして、無関係の場所で一からやり直せば良かった。大手会社の現場マネージャーなんて、可能性は高くはないが、いつ九鬼と鉢合わせをしてもおかしくない。今なら矛盾した自分の行動の意味が、わかる。 「俺は……あなたが好きです」  その声はみっともなく震えた。それでもこれは今の百瀬の精一杯だ。自分の感情を人に伝えることが、こんなに怖いことだとは知らなかった。次の瞬間が来るのが怖かった。この静寂を壊せばそれが来てしまうのだと思って、必死に息を殺していた。 「ボロクソに言われて、好きになっちゃったの? 最初に会った時からちょっとソレっぽいなとは思ってたけど、君は僕の想像を超えたドMだったんだねぇ」  自分を揶揄する男を、百瀬は黙って見つめた。自分が欲しいのはその先だ。おどけた表情の向こう側にある、少し冷たい印象がする九鬼の本性。過去に百瀬はそれから逃げ出した。だけどもう、九鬼の過去を、そして今をただ通り過ぎるだけのモブではいたくない。  もしかすると九鬼は、百瀬が「ふざけるな」と怒り出すのを待っていたのかもしれない。けれど反応のない百瀬に、やがて『やれやれ』というような顔をして頭を掻いた。 「なんかあるんだろうなぁとは思ってたけど、このパターンは少々予想外だったかなぁ。……あーあ、こんなことなら一昨日の夜あのまま食ってれば良かった」 「……え?」 「まあでも、君の泣きそうな顔はなかなか見ものだったけど」  状況が飲み込めていない百瀬を置き去りにして、九鬼は楽しそうに笑う。そしてようやく百瀬にわかるように説明をした。
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