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 それともう一つ、美紗緒にとっては厄介な感情のせいもある。西崎の好意には気付いていたが、美紗緒は気のない素振りを続けていた。  その美紗緒が修一の実力を認め、特別視していることが面白くないのだろう。水泳選手としてはそこそこの成績を残したようだが、人間としては少なからず未熟な所があるようだった。  修一は準備を整えると、競泳用プールのスタート台に立った。西崎のホイッスルの合図とともにスタートを切る。  静かな入水はほとんど飛沫があがらず、一度グンと沈んでから鮮やかな浮上を果たし、無駄のないストロークでどんどん速度をあげて進んでゆく。  まったく軸のブレない、危なげない泳ぎは現役時代と比べても遜色がないように思われた。逞しい肩が水面から盛りあがり、滑らかな動きで高く上げられた褐色の腕は、羽ばたく鷹の翼のようだ。  美しい半円を描きながら前方へ繰り出される腕は優雅そのもので、その残像のような水の線が、揃えた指先から放たれ、後方へと飛び散っては消えてゆく。  息を呑むような、美しい泳ぎだった。  見学していた生徒だけでなく、付き添いの母親たちからも歓声が上がる。  ふと明良に目を遣ると、カメラを構えることも忘れ、どこか茫然とした様子で修一の泳ぎを見つめていた。まるで泣き出しそうな表情は、ひどく可憐で思わずドキリとする。 (こんなカオ、するようになったんだ……)  それは苦しい恋をする者だけが見せる、複雑で、切ない表情だった。  二人の間に一体何があったのだろう、と美紗緒は思う。
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