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「あれは幻だったんだよ。夏幻」
僕はそう言うとノートを閉じた。
「なんだ、ゲンカって」
もうすぐ許可された時間が来る。歌いたいから歌うだけと嘘をつく男が公衆の面前で歌っていい時間がもうすぐ来る。たとえ誰も立ち止まらせられることができない歌でも。知り合いのミュージシャンの全く思われていない「がんばれよ」だけが僕の受けるエールでも。僕は歌う。これは幻じゃない。そう思ってこれまでやってきた。本当は夏が来るのが怖かった。幻を見せた夏が来るのが怖かった。だけど、僕は夏が来たっていつもの場所で歌うと決めていた。夏が来ても僕は歌う。
日差しが容赦なく僕を照りつける。最悪の場所でも僕の場所だ。僕の歌う場所だ。夏の白昼夢でもない確かに僕が立つ場所。踏みしめて僕は歌う。不純で小物で嫉妬や羨望だけはいっちょまえの僕だけど、湧き出たメロディと歌詞は確かに純粋だと胸を張れる。僕は矮小だけど、この歌は違う。誰の心を動かすことはできなくても、金を稼げなくても僕の歌だ。僕の場所で僕が歌う僕の歌。誰の歌でもない僕の歌。焼け付く日差しが僕を変わらず照りつける。夏は怖い。でも、僕はもう幻は見ないと誓った。
「あ、いたいた。やっと見つけた」
男性が急ぎ足で僕への方へとやって来る。僕は無視して歌う。
「邑輝浩詩くんだろ。椋薫さんの使いできたんだ。君をメジャーデビューさせにさ」
ついに夏が来たと思った。幻を見せる夏が来た。騙されるものかと声を張り上げる。
「悪いけど、ちょっと歌止めてくれる? 時間がないんだ。なあ、頼む」
男性は汗をふきふき言った。
「聞こえてる? 僕は」
僕は歌い続けた。勝手に来た夏に抗うように。
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