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「やあ」
幻覚どころか、十日後、あの人はデビュー話とともに再び僕の前に姿を現した。あの人が椋薫という、さる芸能事務所の人間だと知ったのはこの時だった。
「みんな反対したんだけどさ、まぁ、ささいなことだよ」
あのひとは近くの喫茶店に僕を引っ張り込んでそう言った。後はもう夢の中にいるようだった。メジャーデビューのための準備で僕は猛暑の中、したことのない早起きと遅寝を繰り返した。そのお陰でさんざん罵られた挙句、バイトはクビになった。それでも僕は平気だった。誰に何を言われようが平気だった。もっと大勢の前で歌える。バイトなんてしなくてもいい。好きなことをして食べていける。
そしてあのひとは死んだ。あれほど必死に働いて夢見ていたメジャーデビューなのに、どうしてだろう。足掻こうと思えなかった。椋薫との話を盾にメジャーデビュー出来たかもしれないのに。夏のせいかもしれない。このうだるような暑さが全てを幻のように見せているからいけないのかもしれない。そうだ。最初から全て幻だったんだ。椋薫自体、最初は夏に見た幻だと思っていたじゃないか。
不意に新しい歌詞が頭の中を流れた。悪くない。タイトルは幻夏にしよう。メロディは――僕は立ち止まった。今更涙があふれる。幻の夏、幻夏が終わる。
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