幻夏

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椋薫が死んだ後、僕はあっさりストリートミュージシャンに戻った。バイト先は思ったより早く見つかって、もうほとんど夏の白昼夢の前の生活に戻った。季節とアパートの場所だけが変わり、気がつけば夏に差し掛かっていた。差し掛かって、というのはカレンダー上のことでもうすでにひどく暑い。 「浩詩」  コンビニのイートインで歌詞を書いていると知り合いのミュージシャンから声をかけられた。僕はさりげなく百円のコーヒーを端に寄せた。予想通り、彼は僕の隣に座った。そう言えば字面の割に読み方が普通だねと椋薫は僕の名前を評したっけと全く関係のないことを思い出す。 「じゃあ、浩詩って書いてアメグレって読んで下さい。芸名それにします」 「いやいや、何言ってんの」 あのひとは呆れ返った顔をした。あの時、僕はなぜ腹が立たずにそんなこと言ったのか自分でも不思議に思ったのを記憶している。よく同じようにからかわれて腹を立てていたものだったが。不思議だ。なぜ今こんなことを思い出すのだろう。椋薫の顔ももうなんだかあやふやなのに。 (そうか。名前で呼ばれたの、久々だった) バイト先のひとたちは僕を苗字で呼ぶ。名前で呼ぶのは数少ないミュージシャンの知り合いと椋薫ぐらいだった。そのミュージシャンたちともこの一年、避けるように過ごしていた。元々さしてなかがいいわけでもない。 「去年、メジャーの話あったって」 忙しくて誰にも伝えていないのになんで知っているのだろう。それも今更。僕はペンを置いた。ノートに癖のある僕の字が並んでいる。明日この歌を僕は歌う。いつもどおりに。 「うん、まぁね」 「で、ダメになったんだよな」 「まあな」 「残念だったな。でもまた次があるさ」 彼は少しも残念そうには見えなかったし、次があることを望んでいるようにも見えなかった。腹は立たない。歌いたいから歌っているくせに、いっちょ前に他人の歌に嫉妬や羨望や苛立ちを覚えることは痛いほど身に覚えがあった。あのひとは僕の「歌いたいから歌うだけ」という歌詞を褒めたけど、本当は歌詞を書いている時だけそう思っているに過ぎない。歌っている時も歌っていない時も歌で食べていきたいと思っている。有名になって褒められて大きなステージで歌いたいと思っている。純粋さなんて欠片もない。歌詞を書くとどうして欠片もないような純粋さが生まれるのだろう。
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