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「……母さんは、」
泣いていたくせに、と気持ちが顔をしかめる。
浮気性の父に詰め寄ることも出来ず、ただ独り、俺たちが寝静まってから声を殺して泣いている姿を、幾度となく見たことがある。
帰らない父をひたすら待ち続ける、今日のような夜が日常的にあることも知っている。
「っ……、母さんは──」
自分の気持ちが伝わらない焦燥感に語気を強めても、不用心さより父への気遣いで鍵を開けていた扉が開く音に、なにもかも意味を失っていく。
反射のように立ち上がり、そわっと俺を振り返る母を見ていたら、もう、何をいう気にもなれなかった。
言っても無駄だと、思い知らされる。
「……、ごめん。なんでもない」
「そう? ……早く寝なさいね」
1分1秒が惜しいと足早に出ていく母の足音に背を向け、テーブルに残された、褪せた絵本を手に取る。
優しい世界は、いつも俺を置いていく。
今日も酔っ払っているのだろう父と鉢合わせしないよう、目的だった水をコップに一杯注いで、リビングを出た。
絵本は、表紙絵でさえ擦りきれていた。
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