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一章 噂話
(1)
縁側に寝転んで穏やかな陽の光を浴びながらうたた寝すると言う行為は、人類に許された至上の幸福の一つではないだろうかと思う。
春休み初日。
早朝から午前中いっぱいで部活を終えた僕は早々に帰宅し、読み掛けの文庫本を読み進めたり進めなかったり。
こうしてのんびりとした時間を満喫している次第である。
「むう……鰤よ……もうお主はさっき食してやったではないか……鰈も食ってやらねばならぬ故……我慢せよ……ぐふふ」
何だか凄い寝言を漏らしている黒猫サクラが僕の上でずっと丸まっていると言う点を除けば言う事は無い。
食してやったって何だよ、順番待ちなのかよ。
思わずプッと噴き出してしまう。
「天下泰平、世は事も無し……か」
昨年は夏の終わりの大騒動から始まって十二月にも妖絡みの一件が続き、そのまま慌ただしく新年を迎える事になったのだけれど。
幸いと言うか何と言うか、今年に入ってからは平穏な日々が続いている。
そうでないものがあるとすれば、毎月サクラが新作猫缶をねだる事によって蝕まれている僕のお財布事情くらいのものである。
まあ、そんな平穏もこの春休みいっぱいに限った事なのだが……。
「ふわ……」
まどろむ意識の中、ぼんやりとこの先の事に思いを巡らせていく。
四月になれば僕らは三年生になるわけで。
同学年の八割以上が大学なり専門学校なりへの進学を考えている僕らは間も無く一様に『受験生』となり、それの実現に向けての行動をとらねばならなくなる。
夏の総体が終わるまでは部活にも時間を割く事になるけれど、それは受験と言うものに対する影響のみを考えればアドバンテージを取り逃す事でもある。
……とは言え受験勉強の遅れを部活のせいにはできないし、そんな事をしようものなら爺ちゃんから地獄の稽古を課される事になるのは目に見えている。
まぁこの問題に関しては、僕に限らずおそらく殆どの同世代の学生が直面する話だ。
本質的に同じはずの高校受験の時にはさして気にしなかった事なのに、社会に出るまでの間合いが一歩縮まっただけで僕らはその輪郭の掴めない不安に対してあまりにも手が出なくなる。
何をどれだけ勉強すれば大丈夫なのか。
志望校の倍率の推移はどうなのか。
体よく合格できたとして、ついていけるのか。
自分の思い描く未来が、その先にあるのか。
「――……わからないな」
僕の思い描く未来とは、一体どんな形をしているのだろうか。
爺ちゃんと婆ちゃんが歳をとっても元気で居て。
サクラは相変わらず食っちゃ寝の自堕落三昧を謳歌していて。
隣には――そんな僕らを眺めて少し困ったような笑みを浮かべた日野さんが居たりするのだろうか。
思い浮かんだその横顔に手を伸ばす。
日野さんは一瞬戸惑った様な表情をしたけれど、やがて頬に触れている僕の手をそっと握った。
その手――
……手?
「…………」
今目の前に、日野さんの顔があった。
「……お」
「…………お?」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおい?」
一気に意識が覚醒した僕はサクラが自分の上で乗っているのも忘れて飛びすさらんばかりの勢いで上体を起こしたものの、日野さんが僕の手を握っていたため中途半端に仰け反った状態で止まらざるを得なかった。
「…………はっ……はっ……」
呼吸が中々正常に戻らない。
心臓がバクバク言って破裂しそうだった。
「……ご……」
「……?」
「ごめん!」
依然サッパリこの状況が掴めなかったけれど、寝惚けていたでは済まされない領域に踏み込んでしまった自覚だけはある。
経緯がよくわからないままとは言え、とにかく謝るのが最優先だと思った。
――のだが。
「……ここ、陽当たり良くて眠くなるね」
日野さんはそう言って、クスリと笑っただけだった。
「……え……あ……うん」
正直この状況で気の利いたリアクションが返せるほど僕は人生経験豊かなではない。
加速した鼓動が収まらないのを覚られないようにするので精一杯だった。
「えっと……その、正直何がどうなってこうなってるやら……」
いやまあ、昨年の騒動以来日野さんが我が家に来る事自体は最早珍しくもないし、それどころか色々あって月の半分くらいは滞在していると言う極めて特異な環境ではあるのだけれど。
……だからって、起きたら目の前に居るとか想定外にも程がある。
「三十分くらい前に来たら、部活から戻って来て縁側で朝霧君眠ってて」
……そんなに前から寝落ちしてたのか。
「寝てる朝霧君の顔、面白いのよって、洋子さんが言うから……」
そんな事を言われて、急に恥ずかしさがこみあげてくる。
その時日野さんの遥か向こう、台所の入り口から婆ちゃんが顔を出してこっちを見ている事に気が付いた。
舌をペロリと出し、親指をグッと立てて片目をバチンバチンとやっている。
もおおおおおおおぉ……何をしているんだあの人は。
完全に僕で遊んでるだろう……。
ガックリうな垂れた拍子に、先程僕の上から転げ落ちたであろうサクラの姿が目に入る。
……微動だにせず腹を上にして寝続けている……。
何だかツッコミを入れたりする気も削がれてしまった僕は、とりあえず詳細な現状把握だけしておこうと思った。
「来るなら教えてくれれば良かったのに」
「参考書」
「……へ?」
「参考書、買ってきたの」
ゆっくり上体を起こした日野さんが、僕の後ろに置いてあるものを指差した。
少し大きめのザックが客間の畳の上に鎮座している。
「……ああ、うん……あれ全部そうなんだ……。随分沢山買って来たね……」
「洋子さんに頼まれて」
「え」
「洋子さんに」
「……」
「頼まれて」
……二度言われてしまった。
「あれ……僕のこなす分なんだ……」
せめて受験モードは新学期になってからにと言う浅はかな考えは見通されていたと言う事かと頬を引き攣らせていると、日野さんの答えはその更に上を行くものだった。
「ううん。私達二人分」
「……ん?」
仰っている事の意味がよくわかりませんが……。
「同じ大学受けるから」
「……」
「……」
「…………」
「…………」
しばらく真顔で見つめ合った後。
「…………はい?」
僕はここ数か月で最も間の抜けた顔でそう聞き返すしかなかった。
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