刹那染まる青へ

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 昨日の伊織は、少し緊張しているように見えた。そろそろ就職活動の疲れも出ているのだろう。せっせとスーツのアイロンがけをする背中は、決して弱みを見せようとはしないけれど、いつものように抱き寄せた体が少しばかり痩せたような気がする。 『相山さんなら大丈夫です』  自分には何もできないとわかっている。近堂は自分の言葉が虚しく宙をすり抜けていくのを無視して、伊織の体をかき抱いた。こんなに近くにいるのに、伊織の支えになることもできない。  ぽんぽん、と近堂の背中を叩く手はいつも優しい。労りすら感じさせるその仕草が、今や近堂には辛くて仕方がなかった。せめて触れあう瞬間だけはこの気持ちが伝われば良いと、縋るように抱きしめる近堂の必死さを、彼は優しく突き放す。妹の身代わりにされたと思い込む伊織にとって、そもそもこの行為自体が受け入れ難いものに違いないのに、まったく拒絶を見せない彼は、一体どれほど辛抱しているのだろう。好きでもない男に毎度毎度抱きしめられて、どうして我慢できるのだろう。そんな我慢を強いているのが他ならぬ自分であるということを、抱きしめる度に思い知らされる。  どこから間違っていたのかは明白だ。あの日、近堂が正直に告げなかったこと。伊織が好きだと男らしくストレートに伝えていれば、きっと今みたいなことにはならなかった。恐らく、すっぱり振られて終わりだっただろう。それでも、近堂の気持ちを勘違いされたまま、嫌々腕の中でじっと耐えられている今よりはずっといい――本当にそうだろうか? 悪魔みたいな声がした。告白してなかったことにされるより、嘘でもあの人に触れられるほうがいいと思ったから逃げ続けているのではないのか? 今さら真実を告げて、今さら何もかもなかったことにできるのか? 一度知ってしまった温もりを、手放すことなどできるのだろうか?  出口のない答えを求めて、それでも近堂の足はふらふらとあの人の家に向かってしまう。就活の忙しい時期に連日押しかけるなんて褒められたことではないが、今はどうしても伊織の顔が見たかった。どこまでも暗く落ちていく思考を、どうにかして留めるにはそれしか方法が思いつかない。しかし、近堂の物思いを断ち切ったのは予想外の人物だった。 「あれー、近堂じゃん」  場違いなほど明るい声。近堂ははっと顔を上げる。そこにいたのは、志織だった。
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