△月○日

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――家に帰ってきて何気なく携帯を眺めると、2時間前に1件、そして数十分前に1件と、同じ番号から着信が入っていたことに気付いた。 美鷹香月でもなければ、ついさっきに連絡先を交換し合った美鷹那月のものでもない。 もちろん家族の誰のものでもない。 出るべきか否か。 どうしようかと考えていた今、同じ番号から着信が入った。 「…もしもし?」 こちらのプライベートなんて考慮なしと言わんばかりの短いスパンで、3度目の着信。 もしかしたら、自分に縁のある人物なのかもしれない。 その線を捨てきれなくなり、迷惑電話ではないことを祈りながら俺は通話に応えた。 『――…あ』 電話の向こうの主が、小さな声を零した。 驚いているようだった。 出るとは思わなかったとでもいうのだろうか。 「もしもし?」 一向に話し出さない相手に、促すように再度応える。 すると相手は、焦ったように声を上げた。 『あ、えっと…。お、俺んこと、憶えてる?』 「いえ、”俺”なんて知り合いは存じませんが」 …なんて冷たくあしらってみせるが、おおよその見当はついていた。 久しい、聞き覚えのある声と口調だ。 『あ、ごめん、俺…。西谷や。西谷健吾』 「ああ、やっぱり君か」 『ああ。その…。久し振り、一色』 通話相手の西谷健吾は、同じ研修医として同時期に前の職場に入り、一緒に働いていた同僚だった。 「久し振り。番号は風見先生から聞いたのか?」 『そ、そう。勝手なことしてごめん…』 「いや、気にしないよ」 『ああ、でも。ごめん』 「相変わらずよく謝るやつだな、君は」 自信なさげで気の弱そうな声色が相変わらずなものだから、思わず笑ってしまいそうになった。 彼はいつもことあるごとに、この頼りない声で俺にヘルプを求めてきたっけな。 『…新しい職場はどない?』 「いい環境だよ。忙しさはこっちの方が上かもな」 『そ、そっか。頑張ってるんやな。口調も、変わったな』 「元の生まれはこっちだったからな。話しにくいなら戻そうか?」 『いや、ええよ。そのままで…』 ……だけど風見先生以外の前の職場の人間が俺に連絡をしてくるなんて、一体どういう風の吹きまわしなのだろう。 人伝いに連絡先を聞いてまで、今さら俺と関わりたいと思うなんて。 「そっちは?」 「………」 特に彼、西谷健吾は。 『あそこ、辞めてん』 「辞めた?」 『ああ。お前がそっちの病院行ってから……。また俺…。……』 「……そうか」 言葉を閉ざしていく西谷健吾の心中を察する。 同時に、あの職場は本当に陰湿で荒んでいるなと、改めて残念に思った。 きっとどこにでもある景色なのだろうけれど、そう考えずにはいられなかった。 「潰される前に自分で見切りをつけられたんだ。良かったじゃないか」 『ありがとう。……』 労いを込めて言う俺に、西谷健吾はほんの少し声を和らげた。 けれど小さな息を零すと、直ぐにまた黙り込む。 「……」 『……』 通話が繋がったまま、俺たちの間に数十秒の沈黙が続いた。 俺は敢えて黙っていた。 何か重要なことを切り出すときには、数十秒の間を必要とする。 西谷健吾がそういう人間なのを、知っていたからだ。 『どうしても、謝りたかったんや』 やがて西谷健吾は、表情が想像出来てしまうほどに重苦しそうな声を発した。 『お前はいつも俺のこと庇ってくれてたのに。俺、お前のこと身代わりにした。ほんまに、ごめん』
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