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――彼への期待がすっかり萎え始めていたからか、その言葉は見事俺の意表を突いてくれた。
「…おや、どうしてそう思うのでしょうか?」
気を取り直して苦笑いを顔に貼り付け、俺は様子見に惚けてみせた。
「虐めるだなんて、根拠もないのに酷いですね。自分が選んだ相手にそんなこと」
憎たらしくしらばっくれて微笑み、美鷹那月の出方を窺う俺に、
「根拠なら、兄がちゃんと証明してくれましたよ」
彼は言いながら、自身の鎖骨付近を指先でとんとんと叩いた。
「余程嫌で許せなかったのでしょう。掻き毟って酷い有り様でした」
そこは、俺が美鷹香月に付けたキスマークぴったりの位置だった。
「先週の水曜日、一緒に朝食を食べていた時点ではなかったものです。ならば家を出て、仕事から帰って来るまでの間に出来たのでしょう」
遠回しながら、確実にこちらを疑って掛かる言葉。
身内の交際相手…しかも初対面の人間に向けるには余りにも攻撃的で失礼なものだった。
せっかくの兄の交際関係を崩しかねない、軽率な発言だった。
「車通勤の兄が道中で暴漢に襲われるのは考えにくく、痕を付けられる場は自然と限られていきます。生身でうろうろ歩き回っていて、人の目の届かない部屋を持っている職場に」
しかし彼は、自身の踏み込んだ発言を省みず、無実を主張する俺に一切遠慮せずに話を続けた。
「一色さん。さっき、2人の交際が始まったのは先週の水曜日からだと、自分で言いましたね?」
「言いましたね」
「ならあなたは、兄の痕がいつ出来たものなのかご存知なのではないでしょうか」
否、シラを切る俺の笑みを剥がす一手を、緩めなかった。
「あなたが兄をこれから先も支えたいと言ってくれたのなら、教えてください。
その水曜日の夜、何故 兄は喜びに浮かれるでもなく暗い表情で帰ってきたのですか?
何故、恋人のあなたが付けた痕をめちゃくちゃに傷付けたのですか?」
真っ直ぐこちらを見つめながら、畳み掛けるような物言い。
「何一つ幸せそうな顔をしないのに、何故兄は真っ青な顔であなたの隣に居ようとするのでしょうか?」
正直、面食らってしまった。
「あなたと兄は確かに恋人同士なのだろうけど。ですがその関係は、兄が弱味を握られていて逃げられないからこそ成り立っているのではないのでしょうか?」
美鷹那月は、ハナっから兄の恋人を名乗る俺を歓迎していなかったのだろう。
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