160人が本棚に入れています
本棚に追加
/89ページ
「何故ですか」
ただ耳を疑うしか、目を丸くするしか出来なかった。
”兄の苦しみひとつ見逃す自分に、価値はない”
ついさっきのことだった。
目の前の男が、嘘のない真っ直ぐな眼で確かにそう言い切ってみせたのは。
俺は彼のその様を信じた。
「どうして」
だからこそ、同じ口から出たとは思えないまさかの返答に、こうして呆然となる他なかった。
「あなたが、言葉選びも表情作りも全部上部だけの嘘つきだからです」
間抜けに言葉を失う俺に、美鷹那月は突き付けた。
「兄のあの様子を見る限り、あなたの言っていたあの人に対する仕打ちは本当なのでしょう。
だから兄の辛さも本物であって、その辛さの元凶は紛れもなくあなただとも解ります。
だけど僕には、下衆を徹底するあなたの様がどうしてもわざとらしく見えるのです。
それじゃあまるで、一刻も早く自分が悪人であることを僕に知って欲しいみたいですよ?」
今まで通りの柔らかい笑みを忘れずに、至極落ち着いた様子で、彼は俺に冷静な見解を叩き付けた。
「――なるほど、那月さんには僕がそういう人間に見えるのですね。…しかしそれは結局、憶測の域を出ない解釈でしかないでしょう」
少し笑ってみせた俺は、目を伏せ、彼の言葉を飲み込むように小さく頷いた。
「それに。悪人ぶりたくて嘘を吐いている人間が、かと言って善人とは限らないでしょう。それを考慮せずに、あなたはお兄さんの現状を見て見ぬ振りするというのですか?」
”一刻も早く、自分が悪人であることを知って欲しい”
彼のその露骨な言い回しは、全てを物語っていた。
美鷹那月の柔らかい目元に縁取られた瞳は、鋭く真意を見つめていたのだ。
「幸せそうな顔何一つさせない、そんな相手に。あなたは大切な兄をそのまま託していてもいいと言うのですか?」
それでも俺は、彼に笑みを返した。
秒を刻む度に全てを悟りながら、まだどこかに言いくるめられる瞬間があると貪欲に思っていたからだ。
――このまま素直に引き下がれば、この1週間、美鷹香月は何の為に傷付けられ、苦しんだのか。
俺は何の為に、美鷹香月を傷付け苦しめてきたのか。
何も動かない得るものがない、ただ失うただけの結果だけは、避けたかった。
「結構なことじゃないですか。あなたにとって不都合なことなんて何もないでしょう?」
けれど美鷹那月は、そんな俺に決して付き合わない。
俺のあらん限りの語彙を以ってしても彼の感情には届かないし、揺さぶられない。
彼の眼に映る俺はもう、滑稽で底の浅い道化師でしかないのだろう。
最初のコメントを投稿しよう!