△月○日

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――部屋の中に空腹を刺激する匂いが浮かんだのは、それから間も無くのことだった。 店主がよりをかけて作ってくれたであろう料理が、ようやく運ばれてきたのだ。 「美味しそう、こういう料理久し振りだなぁ」 配膳された料理に目を輝かせながら、美鷹那月は言った。 当直を終えて今朝仕事から帰って来たという彼は、どうやらこの時の為にまともな食事をせずにいたのだとか。 きっと今の彼の胃袋にはウーロン茶しか入っていない。 だとしたら、直ぐに箸を握れないこの状況はかなりの生殺しではないだろうか。 「院長、冷めないうちに戻ってきていただけるといいですね」 「そうですね。せっかくの料理ですもの、温かいうちに皆で食べたいんだけどなぁ」 気休めにもならない俺の言葉に苦笑しながら、美鷹那月は閉ざされた出入り口に目をやった。 「……ああ、そうだ」 それから何か思い出したように呟くと、兄の帰りを待つ彼の横顔が俺に向き直った。 「兄さんが帰って来たら、僕の隣に座らせますね」 「え?」 「また体調が悪くなるかもしれません。僕の隣だったら、兄さんも遠慮なく部屋を立てるでしょうから」 彼の理由付けは上手いものだった。 「そうですね。その方がいいでしょう」 しかしそれはあくまで建前だろう。 美鷹那月の言葉の本意はおそらく、美鷹香月を自分の傍に置きたいからだ。 けれどそれは決して、彼が美鷹香月への独占欲に駆られたわけではなく、自身の優位的な立場を俺へ示したいからというわけでもなく。 今まで彼がそうしてきたものと同じ、兄への優しい愛情のひとつなのだろう、そう思った。 ”美鷹香月が戻って来る” それは暗に、今までの話をこれ以上続けられないことを意味していた。 そうでなくとも、美鷹那月は美鷹香月に自分の真意を聞かれたくなさそうだった。 「最後にひとつだけ、いいですか?」 「はい、何でしょうか?」 当分、こうしてゆっくりと美鷹那月と顔を合わせる機会はないだろう。 だからどうしても聞いておきたいと、俺は少し食い気味に訊ねた。 「あなたはどうしてそこまで、初対面である僕を信頼なさるのでしょうか」 どうして碌に素性も分からないであろう俺に、大事な兄を心良く託せるのか。 どうして俺という外側の人間に、決して知られるべきではない本心を開示しようと思ったのか。 唐突だったであろう俺の言葉に、美鷹那月は特段驚かなかった。 まるでそんな俺の口からそんな疑問が出ることも想定していたようだった。 「僕とあなたが、趣味の合う似た者同士だからですよ」 だから彼はひとつ微笑んで、何の迷いもなくその言葉を俺に返した。 ――美鷹香月が戻って来たのは、その会話から程ないときだった。 鬱々とした表情をしている彼の顔色は、部屋から出て行ったときよりも悪化しているようだった。 「兄さん、こっちおいで」 そんな見るからに心のダメージに憔悴している美鷹香月だったが、呼び掛けて手招きする美鷹那月を見て、僅かながら安心したように表情を和らげた。 「人揃ったし、頂きましょうか」 「そうですね」 全員が席に着き、俺たちはようやく食事を始めた。 以降の話題の内容は至極 真っ当で明るい雑談ばかりだったが、それでもやはり、美鷹香月は怯えているようだった。 自分にとっての一番の味方と一番の敵が親しく会話しているのだ、生きた心地がしないのも無理はないだろう。 その所為で美鷹香月の前に並んでいる料理の減りは著しく遅かった。 食欲がないらしく、どうしようかと困っているようにも見えた。 だけど美鷹那月が、 「兄さん、この茶碗蒸し食べ易いよ」 「椎茸がね、鍋のつゆを一杯吸ってて美味しいんだ」 「天ぷらね、全然油っぽくなくてあっさりしてるよー。やっぱりこういう所の料理は違うねぇ」 と、隣で笑って話しかけるたびに、その料理に関心を示して口に運んでいた。 美鷹那月は、食べない美鷹香月に対して”食べろ”と勧めたわけではなかった。 それでも食欲がないはずの美鷹香月が懸命に箸を動かすのは、きっと、料理の味を知りたかったからなのだろう。 そして”美味しい”と笑う美鷹那月と一緒になって、”美味しい”と感じたかったのだろう。 こんな些細な一面からですら、美鷹香月が美鷹那月を信頼していることがよく分かった。 (本当に、好きなんだな) あの日から2度目となる、2人が一緒に並んでいるのを眺めて改めて思った。 美鷹香月が、どれほどの想いを美鷹那月に寄せているのかを……。
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