△月○日

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なんてことない話だ。 西谷健吾はこの通り気弱な人間だから、張り詰めた現場で働く職員にとって格好のサンドバッグだった。 研修医でまだ右も左も分からないのを良いことに、要領の悪さを説教という形でいびり、医師には向いていないから辞めてしまえなんて言葉を浴びせる。 それを西谷健吾ただ一人に対して複数人で繰り返す。 そうして人の心を切り裂く先輩方の表情は、至極生き生きとしていらっしゃったものだ。 俺たちと同時期に入った研修医は他にもいたが、皆 西谷健吾から距離を置いた。 ある研修医は先輩方と一緒になって、西谷健吾を追い込む始末だった。 西谷健吾は、益々孤立していった。 だから俺は西谷健吾の傍に居た。 西谷健吾へ仕向けられたミスの誘発を、見える限りはフォローした。 罵倒されている西谷健吾の間にも入った。 別に西谷健吾を特別気に入っていたわけでも、恩があったわけでもなかった。 彼に対する扱いが余りにも不当で、余りにも理不尽だと思ったから、ただそれだけだった。 研修医の誰かが、こっそり俺に言った。 ”長いものには巻かれろ”と。 研修医の誰かが、気を利かしたように俺に言った。 ”社会に出たらこういう空気を読む必要もある”と。 下らないと一蹴した。 それと西谷健吾が虐められることに、何の関係があるのか。 それと病気への不安を抱えた患者が救われることに、何の関係があるのか。 何一つ理解出来なかったからだ。 やがて先輩方の矛先は、西谷健吾から俺へと移っていった。 助け舟を気取って助言してきていた研修医の同僚達も、次第にその空気に便乗し始めた。 そして、西谷健吾も。 いつの間にか、その空気の中に溶け込んでいた――。 『俺…ターゲットがお前に変わったとき、正直ホッとしたんや。それで、先輩も同期もお前が気に入らんってなってるん見て、今までの扱いに戻りたくなかったから、俺…』 もう懐かしさすら感じる日々を思い出していた俺に、西谷健吾は震える声で懺悔する。 何度も何度も、”ごめん”と繰り返した。 「いいんだよ、もう。そんなこと」 俺は溜息混じりに笑いながら言った。 「俺は自分の寝覚めが悪くなるのが嫌だったからそうしたんだ。今でも後悔はしていないよ」 正直に言えば、西谷健吾が”する側”の人間になってしまったのはショックだった。 けれど西谷健吾にだって自分を守る権利がある、その為にはああするしかなかったのだと、そう考えれば直ぐに納得出来た。 幸い俺は先輩方になじられるようなミスを滅多に犯さなかったし、古株だった風見先生に可愛がられていたからやり口が苛烈化することもなかった。 それに俺自身もこんな性質の人間だ。 人に対するトラウマなんてものはちっともなく、今も転職先のこっちでのうのうと勤務医を出来ている。 俺にとって、全部過ぎたことだった。 けれど西谷健吾は、ずっと深刻に考えてくれていたのだろう。 「気持ちは十分受け取ったよ、ありがとう。これから転職活動だろ? 次の場所では、もっと堂々としろよ」 『…ああ、ありがとう。ほんまにありがとう。頑張るよ。……お前もさ』 「ん?」 『お前もさ、自分のことだけ考えや。…なんでもかんでもほっとかれへんからって、俺のときみたいに自分が損しにいくことはないねんで…』 西谷健吾の声は、ひどく言いにくそうだった。 けれどどうしても言いたかったのだろう、いつもの数十秒の心の準備の後に、大人しいながら思い切ったように伝えてきた。 「ははっ。ご忠告ありがとう」 俺はそれを、冗談ごとのように笑った。
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