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通話を終えて暫く。
ベッドの上に寝転ぶ俺の頭の中には、未だに西谷健吾の忠告が残っていた。
それはきっと俺が彼の心配も虚しく、現在進行形でひとつの物事に首を突っ込んでいるからだろう。
(損、か)
西谷健吾の立場上、俺がそう見えていたのは仕方ないことだろう。
けれど俺は、あの件で自分が損をしたなんて思ったことはなかった。
電話口で西谷健吾に言った言葉は、彼に負い目を感じさせないための誤魔化しでもなんでもない本心だ。
あの時、俺はあくまで俺に対して正直でいただけだ。
もし、職場いじめに耐え兼ねて憔悴している西谷健吾を見て見ぬ振りしていたら。
俺はきっとその日々のことを忘れられなくて、今もこれから先もずっと後悔していくことになっていただろう。
……俺にとって、自分に近しい人間が悩んで思い詰めている姿ほど、見ていて苦しいものはない。
きっと、悩んでいる人間皆の表情が似ているからだ。
父を亡くした当時、喪失感からずっと鬱状態に陥っていた母親と。
引っ越した先の京都の小学校で、クラスから爪弾き者にされて登校拒否をしていた弟の、ひどく暗い表情に。
だから俺は、自分に近しい人間がそんな表情をしていたらどうしても放っておけなくて、つい口を挟みたくなってしまう。
自分の技量を過信しているわけではないし、後から恩着せがましいことを言うつもりもない。
ただ、俺が気付くところで独りで悩まないでいてほしいだけだ。
いつかフラッと居なくなってしまいそうなあんな表情に、なってほしくないだけなのだ。
長い鬱状態の末、母はとうとう、父の後を追おうと自殺未遂をしてしまった。
それで弟の精神も益々不安定になって、自分たちを養ってくれていた祖父母の表情も、どんどん暗くなって…。
自分が傍にいながらそんな顛末を目の当たりにするのは、もう沢山なんだ。
そうなる前に、自分に出来ることをしたいのだ。
――…なんてこと、今の俺が言えないのは分かっている。
だって俺は美鷹香月に、そんな表情をさせている張本人なのだから。
ああ、この先どうしようか。
弱り切った彼にとってのエリクサーとも言える美鷹那月は、一切合切俺の言葉に靡かなかった。
彼が絆されてくれなかった以上、俺と美鷹香月が見せかけの関係を保つ理由はもう無いのだ。
だから俺は、一刻も早く美鷹香月を自分から解放するべきだったのだけれど。
あろうことか美鷹那月に、兄を頼むと頭を下げられてしまった。
(……冗談じゃない)
俺が美鷹香月にした仕打ちを振り返れば、そんな収め方 到底出来るはずがない。
それに美鷹香月は、もう完全に俺のことを敵視している。
俺は彼にとっての癌だと言えるだろう。
そんな相手との交際を美鷹香月は強いられているのだ。
いくら兄を想うが故とは言ったって、計り知れないであろうその心労を美鷹那月は汲んでやるべきじゃないのか。
とことん嫌いな相手である俺とこの先もずっと付き合っていくなんて、生き地獄もいいところだろう。
美鷹香月には本当に好きな人がいるのだから、尚更に。
”あなたが愛してあげてください”
(……いや)
微に入り細を穿つ、そんな彼の、愛する兄の嘘も隠していることも全て見透かすあの眼が、そんな簡単なことを見落とすわけがない。
ならば美鷹那月は、俺に、美鷹香月とのこれまでを覆せと言うのだろうか。
”趣味が合う似た者同士”である、俺に――。
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