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「だからなんだ。お前の堪忍袋が切れようが、アキレスけんが切れようが、俺が包丁を握ることはない」
「ああ、そうかよ! くそっ、もう俺も知らねぇ!」
厨房から出て行こうとする藁島を、獅々田さんが呼び止める。
「太陽君! どこに行くんですか!」
「さんぽ!」
古びた引き戸を開ける音を店内に響かせ、藁島は喫茶店を出て行った。
騒がしい音が消え、厨房に獅々田さんの心労のこもった吐息だけが聞こえる。
「――すみません、普段は良い子なんですけど、感情的というかなんというか」
「短絡的なカカシ野郎だ」
「こら、鉄平君も子供みたいなことを言わない」
バツイチ子持ちというだけあって、獅々田さんは喫茶店の保護者のようだ。
そう見えるのは他の従業員が精神的に少し子どもっぽいせいだろう。
「仕方がありませんね。申し訳ありませんが、僕と二人で作っていただいてもよろしいですか?」
獅々田さんは腰に手を当てて申し訳なさそうに眉を下げた。
「私が勝手に受けちゃった仕事ですから、もちろんです。私こそ、従業員でもないのにこんなことに巻き込んでしまってすみません」
「いえいえ、お気になさらずに。こんなこと、真理子さんが生きていたころ以来ですから」
獅々田さんの声はなぜか嬉しそうに弾んでいる。
「真理子さん?」
「【西ばあ】のことですよ」
水道で手を洗った獅々田さんが、布巾で手を拭きながら答えた。
初めて彼女の名前を知った。
同級生や近所の人たちも、西ばあと呼んでいたせいで、彼女の名前を知る機会なんてなかったのだ。
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