0人が本棚に入れています
本棚に追加
「間違いありません。この家紋は加藤家のもの。この背丈からも、加藤清正が正室、かな姫に間違いありません」
時は1600年、あの天下分け目の関ケ原の戦いよりちいと前の話。九州の小西行長領にある山間の洞窟。この山を登って降りたところが加藤清正領である。
そこに上流階級の人が着るような、赤や桃や白に緑に紫と鮮やかな色が散りばめられ、そこに勿忘草があしらった打掛を着た女子の骸を、小西行長の兵が見ていた。
その骸の背中には赤地が輝かしい南蛮のマントを羽織っていた。そしてそこには大きく加藤家の家紋である蛇の目紋が入っていた。
あと少しで愛しいあの人に会えたのに。その18にしかみたない女子がここで命を落とさなければならないのも戦国の常。生きて生きて生きてあなたに逢いと~うに・・・。
その1年といかばかりか前の三河の刈谷城には17と年場の若い女子が叫んでいた。
「嫌じゃぁ! 」
三河の刈谷城では女子が大広間から叫びながら出て行った。
「かな! 」
そう呼ぶは刈谷城主水野忠重である。
「嫌なものは嫌じゃあ! 」
その年場の若い17の女子は、桃を基調とした派手な身なりの小袖を身に着けながら、そう駄々をこねながら廊下を早歩きで歩いて行った。
「これは親方様である、徳川家康様の命で御座いますぞぁ! 」
その後を、40ぐらいの女子がその17の女子を追いかけながら話していた。
この17の女子は、刈谷城主水野忠重が子である、かなである。そしてこの40ぐらいの女子は、かな姫付の女中筆頭である加倉である。生まれた頃からかなの養育をした人物で、毎日毎日小言ばかりを言っていた。その後ろにいる、かなと年場の変わらない子は、かなの側近の文(ふみ)である。
「20も年上の人なんて、嫌じゃあ! 」
時は1599年。太閤秀吉が死去してからすぐ。徳川家康は、かなに加藤清正の嫁になれと言っているのである。
この時期、徳川家康は、有力大名家と婚姻を結んでいた、その大名家とは伊達政宗や黒田長政などである。しかし生前豊臣秀吉は大名同士の婚姻を勝手にしてはいけないと禁止していた為、前田利家や石田三成などがこれに対して異議を唱えていたのである。
最初のコメントを投稿しよう!