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「夕方には帰ってよ」
「うん」
彼女はしおらしく返事をして、フローリングに寝そべった。胎児のように限界まで折り曲げられた四肢は今さらだがとてもか細く、枯れ枝のようで、もうすぐ死ぬのだろう、ということがなんとなく察せられた。こつん、爪先が観葉植物に中たる。はらりと散る葉一枚に彼女は懺悔をするように顔を覆って泣き出す。海を、私たちにだけ青く見えるあの海をそのまま内包したかのような碧眼は涙を流しながら、その実、もうすぐそこまで迫っている枯渇の恐怖を孕んでいた。
風鈴の音だけがやさしい。ちりん、と鳴る涼やかな音が世界を横切っていく。その度に、‘おかえり’と言われているようで嬉しくなる。彼女のママはおかえりといってらっしゃいを言うのだろうか。言わないのなら、せめてこの音に慰安を見出せばいい。この音は、誰のことも傷つけないから。
「あなたの瞳の色って青いよね。きっと映る海も青いんだろうなぁ」
骸のようだ。少なくともペットより扱いが難しい、だって痛みを訴えることも出来ないから。痛いところを鼻先で示すことも、感じている苦痛に身を捩る術も知らない。そんなことではいつか体内から壊れていくのだろう。
「それって海は青いって言いたい?」
痛い、と言う代わりに彼女は問いかける。それを訊いてしまえばもっと痛くなるということがわからないのだろうか、わからないから救いを求めるようにこちらを盗み見るのだろう。
「この間、鮫が海岸に打ち上げられてさ。人食い鮫ではなかったのだけれど、みんなから腹を枝で突かれて、皮膚が裂けてね。中からいろんな魚の半分溶けかけた死骸が溢れ出したの。そのときの色彩、あなたに見せてやりたかったな。海が青いって、そんなわけないじゃない。あんなに血みどろになって、喰って、喰われて、千切って、千切られて。裂いて、裂かれて。赤でしかないよ。赤じゃないって言う人は狂っているよ。青って言う人はきっと、心が弱すぎるんだよ。目の前の惨状を受け入れられないんだ」
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