その1 白雪(しらゆき)緋墨(ひずみ)の世界(前半)

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その1 白雪(しらゆき)緋墨(ひずみ)の世界(前半)

 1  もしかしてこの世界は間違っているのではないかと思いませんか。  2  世界が間違っているとか自分が間違っているか、たぶん口にしてはいけないのだろうことはわかっている。前に、学校で社会が悪いとかゲームか漫画か、その類の小説かはしらないけど、とにかく聞きかじったことを先生の前で口にしてひどく怒られた同級生がいた。 「自分の努力不足を人のせいにするな」  なるほどそういうことは人前では言っていけないことなのだということを僕は学んだ。  ちなみにそいつは努力不足なんかじゃない。そいつは真剣に取り組んでたまたま失敗しただけだ。  大人は何もわかっていない。  でもそんなことを考えている僕はなにも特別じゃない。みんな、子供の頃にはきっと一度くらいは考えたことがあるはずだ。それはあの叱った……と言うより怒った先生も同じはずなのに、どうして大人は理解してくれないのだろう。  どうして……?  僕はその出来事よりずっと前に別の人にその単純極まりない言葉を口にしていた。  世界は僕から何もかも奪ったのか?  今考えれば自分でも恥ずかしくなるくらい甘いことを言った。なにも考えずに。その人がどんな人かも良く知らずに。  そしてその瞬間、問答無用で僕は殴られて、三日間、集中治療室に入れられた。  まぁ、今となっちゃ笑い話にしかならないけれど……。  体がこの上なく弱く、病院と学校を半々に通っているような当時小学生の僕が思いっきり殴られたのだ。  まぁ、なんと言うか、僕のほうが甘ちゃんだったのだと、意識を取り戻してから、殴っておいて一度も誤りもしない女を睨みつけながら学んだわけだ。  ただし、彼女は一度も否定はしなかった。  この世界が間違っていることを。  諭(さと)しも、考えの強要もしなかった。  つまりは彼女の中ではたぶんそれは正解だったのだと思う。いや、僕が勝手に信じているだけだ。だって彼女はその件に関してはなにも言っていないのだから  世界が間違っているとか、それはつまりこの社会が間違っているとか、結果的に大人たちが僕らを苦しめているとか。そんなことを僕はそれ以来口にしないけれど、信じているわけだ。  そしてこの小さいミジンコのような存在ながら、ぼくはその女性の影響を多大に受け、ついにはただの人間をやめてしまい……。  悪を正す正義になろうとしてしまった。 3  午前8時27分。ついでに言うと今秒針は30秒を回ったところ。ここは駅のホーム。最も混む時間は過ぎたものの、それでも日本人は駅の指示通り、三列で整列をしている。  まぁ、ある意味日本人の習性って奴だろう。トイレのときのフォーク並びとか、ラーメン屋さんの行列とか、礼儀正しいというのだろうか。そういえばこのような行動に外国から来た人が驚くとこの前の国語の時間にやっていたな。  まぁ、そんなことはさておき……。  僕は一週間に一回以上、病院に通うために電車に乗る。僕自身は決まった曜日があるわけではないけれど、だいたいこの階段の真下にあたる場所に乗る。前には人、左右にも、斜めにも人。とりあえず知った顔もあるけれどそれはお互い様。  顔は知っている。向こうでも僕のことをそう思っているんだろう。時間通りに行動するのも僕たちの習性なのだろう。  いつもの光景。僕はぼうっと目の前の看板を見ていた。  そこへコツコツとやたらと早いヒールの音が上から落ちてきた。ここは階段の真裏だから姿は見えないけれど、あまりのけたたましさに、列の半分くらいの人が真上を見上げた。   さらにそのヒールの音はホームに下りたところで一段と高い音でこちらに近づいてくる。  姿が見えた。  見たことのない若いスーツ姿の女性だった。やたらと大きなバックを下げている。  よっぽど走ったんだろう。髪がぼさぼさだ。メイクだって汗でぐちゃぐちゃになっている。 「はぁはぁ」  ただわずかな空間ができていたという理由だからだろう。僕の斜め後ろで足を止めて、息を落ち着かせようとしていた。  時刻は八時半になろうとしているところだ。もう、この女性が遅刻していることは聞くまでもなく明らかだった。 「あぁ、もうっ」  彼女は小さな声で悪態をついた。  そんなことをしても遅刻したことには代わらないのに。それとも、全力で走れば間に合うのかな。  あぁ、気になる。  ほんのちょっとだけ気になる。 「うぅ……」  彼女は本当に悔しそうにうなった挙句に歯軋りまでした。ちらりと見てみれば、彼女は時計と電子掲示板をみている。  そして恐ろしいことをつぶやいた。 「あぁ、もう事故でも何でも……いいのに……」  彼女が意識してそんなことをいったとは思えない。よっぽど焦っていたのだろう。  まぁ、そう考えるんだろうな。    電車が遅れれば遅延証明書がでる。そうであれば遅刻は多めに見てもらえるだろう。彼女がもともとどうであったかなど、関係なく。  でも。  それを口にしてしまったのは問題だろうけれど、そう考えてしまうのは分からなくもない。道徳的に問題はあるだろうけれど。  周囲の人はとりあえず誰も咎めたりしない。  聞こえなかったのかもしれないし、聞こえていたとしても見知らぬ人にわざわざ声をかけるような関係でもない。  ……というか面倒だろうし。  ほんと、大人ってそんなもんだよね。 「まもなく……」  もうすぐ電車がやってくる。 「白線の内側に……」  ところで白線の内側ってどっちだろ。時々、気になるんだよな。  だって、線だぞ。円や三角ならどちらが内側か、よっぽど偏屈に考えなければ分かるけど、線に内側も外側もないだろうに。  そうやって意識的に別のことを考えてみても、どうも気になる。  目がどうしても彼女から離れない。  そんなに後ろを向いてまじまじ見ることはできないから、頭を下げて、彼女の足元をみた。  コン、コンとヒールの音が無意味に響く。  そんなことをしても電車が早く来るはずもないのに。  なんとなく予感がして、ずっと見ていた。それは音でも言葉でもなく、なんとなくのけはいだったし、僕のわずかな経験だった。  そのときだった。  背中から何かがやってくる気配がした。  確かに、それだけだった。  なのに、視界がいきなり回転した。  息もつけぬ間に、右腕からホームの硬いコンクリートに突撃した。  頭が理解をする前に視界を鉄の塊を掠めてく。さすがにホームの入るところだったから、電車のスピードは落ちていたけれど、それでもさすがに鼻先五センチのところを電車が通っていくのは冷や汗ものだった。 「うわぁー!」 「子どもが!」 「大丈夫か、君!」  電車が完全に止まる前に、ホームに悲鳴が上がった。  と、まぁ、僕はあくまでも冷静にホームで倒れていた。そして僕に声をかけてくる大人たちを他人事のように眺めていた。  みんながとっさに僕から離れ、見つめているのに対し、例の遅刻をした女性は何が起きたかわからないと言う顔をしてぽかんとしていた。やがて、我に返り、自分が何をしたのか思い出したのだろう。彼女は大きな悲鳴を上げて、その場に座り込んだ。
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