プロローグ

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会社に向かう大通りは、いつもの通り人が前へ前へと歩を進め、誰かが見知らぬ誰かにぶつかっても舌打ちだけですぐ人波に消えていく。 パンプスのヒールの音も聞こえない喧騒の中、時間と予定と取引先とを頭の中で再三確認し、歩きなれた道のりを行く。もはや数年前、新卒で歩いたあの時の感慨深さも無い。今日の曜日を無意味に確認し、無意味に溜息をつくばかりの日々だ。 高層ビルの壁面の大型テレビが朝のニュースを淡々と読み上げていく。言葉を理解するよりも前に、今日の予定が思考を埋め尽くす。 埋め尽くす――、それが平生だった。 『―――さんが――で、つぎ――ヴァイオリニストの――さんが』 その瞬間だけ、脳がその他あらゆる必要な思考を放棄した。他人への迷惑も就業時刻も今日の予定も、何もかも。 耳に流れてきた名詞一つが世界の全てになった。足を止め、大型テレビを見上げる。誰もが見上げない世界で。 そうして私は絶望のまま、また歩き出した。テレビの画面には求めていた名前の一つもなく、知らない赤の他人の話だけが流れていた。 時間と予定と取引先と、そしてあの子。何年もの間ずっと、彼のことが頭から上手く離れない。きっと、明日も明後日も。 「私は」もはや無意識だった。息を吐くような自然さだった。「私は君の音が、聴きたい」 掠れた声は、雑踏の中、私しか知らない。
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