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私は仕事を辞めました。一秒でも長く妻と居られるようにと、辞表を出してきました。妻はそんな私を叱りました。そんなことのために大切な仕事をなげうって、と、定年も間近、いわゆる窓際族と呼ばれていた私に対し、叱りました。叱りました。私は苦笑を漏らしました。君は叱る姿も美しいんだね。私の軽口に、妻はまた怒りました。それでも美しい妻でした。
病気が進むにつれ、妻の頬はやつれ、顔色は青白く、薄かった髪はさらに薄くなりました。見舞いの客は、美しさが損なわれましたねと、もう月とは呼べませんねと、迂遠に嫌味を言ってくるように口々に告げて帰っていく日々が続きました。そんなことはありません。妻はとても美しいのです。そう穏やかに告げようと、見舞い客は肩を竦め、憐れんだ風な表情を浮かべ、そしてやはり出ていきました。私は彼らを憐れみました。見た目だけで美しさは決まるわけではないこと、なぜ理解されないのだろうか。酸素マスクを口に当て、点滴だらけの腕になり、一日寝たきりになったとしても、とても美しい妻でした。
ある日妻が言いました。
「せんせい、えんめいはもう、いりません」
とても美しい妻でした。
私は黒い服を着ています。妻は白い花を纏っています。やがて月の白さにも負けないほど、白く輝く体になって、私の目の前に出てくるのでしょう。それでもやはり、妻は美しいのだと、自信を持って言うことができます。
葬儀が終わり、親類縁者も解散し、私は海辺を歩いています。海面がキラキラと、夜の星にも負けないほどに輝いています。ふと光を追えば、妻が微笑んでこちらを見ていました。
青い月が綺麗です。だから今日、私は死にたいと思います。
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