文化三年

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あさぎは再び下を向き、蚊の鳴くような声で礼を述べた。縹之介(はなだのすけ)と呼ばれた男はお構いなしにあさぎの両肩をつかむ。 「今日はな、嬉しい報告があって来たんだ」 喜びいっぱいの相手の様子に、普段から前向きでないあさぎは表情を曇らせた。結婚の報告なのではないか、と真っ先に思い付き、冷えた拳をぎゅっと握る。彼は今年二十歳になる。もう嫁をもらってもおかしくなかった。 「纏持ちになったんだ、俺」 予想と違う言葉に、あさぎは驚いた顔を上げる。縹之介は興奮して顔が赤かった。 「さっき頭取が、俺にやらせるって!」 纏持ち(まといもち)。町火消しの中で最も勇気と体力を必要とする役目だ。火事と聞けば一番に現場にやって来て、風下の家の屋根に上り、火消しの目印となって重さ五貫(18.5キロ)の纏を振り続ける。火消したちは「纏を焼くな」と必死に延焼を防ぐべく家を壊す。 江戸は長屋が密集しており人間も多かったため、火事が頻発していた。八代将軍吉宗の時代に設置された町火消し。 あさぎや縹之介が住んでいるこの地区は、町火消し「いろは48組」、二番組も組の管轄地域だ。普段は鳶の仕事をしている縹之介も、町が火事になると急いで現場に駆けつける。 「纏持ちは、一番危ない仕事だと聞きます」 嬉々とした縹之介とは対照的に、あさぎは不安げに呟いた。 「まあな。誰もができることじゃねえ。頭が俺を見込んでくれたってことだ」 彼の喜びは揺るがない。以前からなりたいと、耳にタコができるほど聞いてはいた。
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