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きっと、彼がロビーにやってくる頃には、またあの飄々とした態度で、何事もなかったかのように、姿を現すのだろう。
――そう、ちょうど藍子や蒼が、今、こうして、舞台を観に来た客として、社会に、自然に溶け込んでいるのと、全く同じように。
世界は廻り、社会は動く。例え今この瞬間、この世界にいる誰が息を引き取ろうとも。それでも時は常に、平等に、流れてゆくのだ。その中で、人は、生きていかねばならない。心に傷を抱えようとも、苦しみを引き連れようとも。社会に溶け込んで、毎日を、日々を、過ごしてゆく。何食わぬ顔をして、他の人間と同様に。
それは、時に無情であり、ある種の救いでもある――と、蒼は想う。
「姉さん」
――気づけば、聖の死から、丸十年。
この十年で蒼は変わり、また、藍子も変わった。その変化は、成長と呼ぶべきものなのか。愛する家族の死という、残酷な現実と共に生きていく覚悟を、二人は、十年かけて、少しずつ獲得していった。
声をかけられた藍子は、どうしたの? と、蒼に言った。その腕の中には、彼女の夫がいる。眼鏡をかけ、こちらに向かって優しく微笑む姿。彼の妻である藍子と、そして蒼に――今もなお、愛され続ける人間が。
「今日の舞台、すごく、よかったね」
蒼は笑った。うん、と、藍子は大きく頷いた。
「最高だった!」
そして、天を見上げて、こう言った。
「――聖も、見てるといいなぁ……!」
彼女の、夫の写真を抱きしめる手が、天へと捧ぐ声が――微かに、震えていることに、蒼は気付き、そして、気付かないふりをした。
「――ねぇ、蒼もそう思わない?」
蒼も、微笑んで頷いた。それを見て、彼女は笑った。それは、聖と蒼が大好きな――彼女が愛する二人が大好きな――あの、向日葵のような、満面の笑みだった。
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