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藍子が自分の記憶としてきちんと思い出せるのは、葬儀や諸々の身辺整理を終え、小さな骨壺と共に、二人で暮していたマンションに一人で帰宅し、誰もいない、暗いリビングに、一人立ち尽くしていたときのことだ。おそらく、聖の死から一週間ほど経ったときのことだろう。
訳もわからず、ただぼうっと、音のしない空虚なリビングを眺めていた。自分の浅い呼吸の音だけが、耳に、直に響いてくる。
藍子の腕の中には、聖の骨が納められた骨壺があった。驚くほど軽かった。つい、一週間前まで「最近料理の新メニューを考えるのが楽しくて、味見を繰り返していたら三キロも太ってしまった」と愉快そうに話していた聖は、もうこんなに軽い。これは果たして聖なのか?
だって、彼が――彼が――もう、いないなんて、有り得ないはずなのだ。事故に遭ったなんて――トラックの運転手が度重なる重労働で不眠不休で働いていたせいで、交差点で左折しようとしたときに横断歩道を渡っていた聖に気がつかなかったなんて――周囲にいた人間が言うには、まばたきするほどの、一瞬のうちに、聖の身体が、トラックの下へと吸い込まれていったなんて――
これは――本当に現実なのだろうか。
ただただ呆然とする頭の中で、その問いを、その問いだけを、藍子は繰り返していた。
これが果たして夢ならば、神様はほんとうに意地悪だ。自分はなんと不運で、悲劇的なのだろう。両親を交通事故で亡くし、最愛の夫も、また交通事故で亡くしたのだ。どこかの安っぽいドラマにありそうなストーリーだ。ここから彼女はどう立ち上がるのか? きっとそのドラマの一番の面白さはそこだ。悲劇のヒロイン、さあ立ち上がれ――と。
「ひじり」
藍子はぽつりと、声に出した。それに答える人間がもういないのを分かっていて、それでも、いつもみたいに、どんなに忙しくても、自分が呼び掛ければ台所からひょこりと顔を覗かせて「どうしたの? 藍子さん」と、彼が、優しい笑みを浮かべてくれるんじゃないかと。
「ひ、じり……」
もう一度、呟いた。藍子の蚊の鳴くような細い声は、リビングの静寂へと吸い込まれていき、やがてまた無音になった。
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