哀しみの産声

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 しかしその日は珍しく、蒼は仕事が詰まってしまい、会いに行けないという連絡をもらっていた。藍子はそうか、と思った。今日は、蒼は来ないのか、とふと思った。  それからゆるゆると顔を動かし、キッチンに目を止めた。キッチンには、包丁がある。聖が手料理をふるまうのによく使っていた包丁だ。  自殺を――考えたことはこれまでにもあった。もちろん、本気ではない。だが、たまに、ほんのごくたまに、このまま自分もここから消えれば、聖に会いに行けるのではないか、という衝動的な欲求に取り憑かれることもあった。けれど、そういうときは大抵、蒼がそばについていたので、その行動を起こすことは、しなかった。この優しい弟の、悲しむ顔は、見たくないなぁとぼんやり思うのだ。  しかし今日は、蒼がいない。だれも、家に来ない。よく分からぬ欲求に掻き立てられ、藍子はゆっくりと、立ち上がった。そして、そろそろと一歩ずつ、キッチンへと近づいていった。 「――ひじり」  そう、聖は料理が得意だった。暇さえあれば、キッチンに入り浸っていた。聖の手料理はどれもとても美味しくて、藍子はどの料理も必ず完食した。よく「聖は天才だ!」と興奮気味に彼に伝えた。そうすると決まって聖は照れ臭そうに、はにかむのだ。その表情が、藍子はたまらなく好きだった。 「ひ、じり……」  ――会いたい。今、すぐに。彼に会って、その体温を感じたい。会ったら、何を話そうか。彼と、何を語ろうか――藍子の頭にはそれしかなく、意識の全ては台所に集中していた。あぁ、もうすぐ、会いに行けるんだ、聖に。私の大好きな――家族に。
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