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どこからともなく漂い始めた砂塵の匂いが鼻腔をついた。そして耳には、一定の間隔で鳴り響く謎の轟音が届いている。地を這うように低く不気味なその音は、まるで世界崩壊のカウントダウンに感じられた。
「そう言えば、ヒモグリさんは大丈夫なの?」
施設内の階段を駆け下りながら、ククリが尋ねた。隣にはハバキリが、ハイロクに代わってヒモグリを背負っていた。
「妙な話なんだが…いつの間にか血が止まっていたんだ」
ヒモグリが答えた。
「止まった? あんなに出ていたのに…」
ククリが驚いて、ヒモグリの傷口を確認した。確かに血は止まっている。それどころか傷口の皮膚が厚く隆起し、かさぶたのようなものまでできていた。
「俺も信じられなかったが、もう治りかけてる。ヒモグリ、お前実は神喰らいなんじゃないのか?」
隣でハイロクが冗談半分に言った。
ヒモグリは青白い顔に苦笑いを浮かべ、
「いや、それはないだろ。ナナカゼたちだってこんなに早くは治らない。それより…」
そう言ってちらりとククリを見た。
「ククリ、君が俺の傷に手を当てた時、何かしたか?」
「え? 私が?」
ククリは目を丸くした。確かにククリは、出血が止まらなくなったヒモグリの傷に、無我夢中で手を当てた。
「私は何もしてません…」
「君が手を当てた後、急に傷口が熱くなった。そしてまるで心臓がそこにあるみたいに、皮膚が波打ち始めたんだ。君が手を当てたことで、何らかの変化が起きたと思うんだが」
ヒモグリは真剣な顔つきでそう説明した。
「そう言われても私は何も…」
ククリは何とも言えず、小さく俯いてしまった。
「責めてるわけじゃない。俺の傷が治ったのは君のおかげかもしれない、て話だ。今度、君を少し調べさせてくれ」
ヒモグリは穏やかな口調で言った。ククリは少し困った顔をした。
「お前はこの生きるか死ぬかの状況で何言ってんだよ」
呆れた様子でハイロクが笑った。するとつられてハバキリもにやりと笑い、
「まあ、いいじゃないか。前向きな話は大歓迎だ。ククリ、生きて帰ったら、血でも何でもくれてやれよ」
そう言われて、ククリは思わず微笑んだ。
そんなやり取りをしているうちに、彼らは倉庫のような場所にたどり着いた。この場所はクエストホールの一番底にあり、物資などの搬入にも使われるため、施設内で最も面積が広い。
倉庫に入った一行の目の前に、巨大な鉄製のドアが見えてきた。ドアには仰々しい大型のハンドルが付いていてた。
「閉まってるな…」
ハンドルを回そうとして、ハイロクが悔しげに呟いた。
このドアの向こうには地下都市へ繋がるシャトルが発車する駅がある。おそらく先にハネビシたちが辿り着いているはずだが。
「鍵は無いのか?」
ハバキリが尋ねると、ハイロクは険しい顔つきになった。
「鍵はない。ハネビシが持ってる端末から、施設のセキュリティシステムにアクセスしないといけない」
「じゃあ連絡すればいいだろ?」
軽い調子でハバキリが言ったが、ハイロクは険しい表情を変えなかった。
「さっきから連絡してんだが、通信できない」
「何でだよ」
「それが分かりゃ苦労してねぇよ」
ハイロクが苛立ちながら携帯を見た。圏外表示は変わらない。通信に障害が起きているようだ。
「あの神兵どものせいかもしれん…くそ!」
ハイロクが目の前の冷たいドアを、力任せに蹴りつけた。虚しい音が響き渡る。
しかしその直後、皆の頭上で、どん、という大きな音がした。何かが倉庫の壁に衝突したような鈍く激しい音だ。
「しつこい奴らだな…」
ハバキリが恨めしそうに壁を見上げた。
しかし次の瞬間、物凄い轟音が鳴り響き、倉庫の壁が破壊された。
「何だありゃ!」
ハバキリが顔を歪ませた。
目に飛び込んできたのは、赤々と燃え盛る巨大な腕だった。
「化け物か…」
夥しい量の火の粉が降り注ぐ。壁を殴り壊して侵入してきたその腕は、尋常ではない巨大さだ。
「ハバキリ!」
背後でハイロクが叫んだ。
「ハネビシと連絡が取れた。扉が開くぞ!」
振り返ると、すでに扉が開かれていた。慌てた様子でこちらを覗くハネビシが見えた。
しかし予想を超えた速さで、巨大な腕は倉庫の中に入り込み、次には肩と膝が壁を抉るように入り込んできた。姿を現したのは、全身を灼熱の炎で包んだ巨人の戦士だった。
「ハイロク、ヒモグリを頼む! 誰かがこいつを止めなきゃいけない!」
ハバキリが叫ぶ。
ところがそのハバキリを、ふっと手を伸ばして制したのはナナカゼだった。
「ここは私がやる」
「はぁ? ふざけるなよ! お前はこいつらと一緒に地下に行け!」
ハバキリが怒号にも似た声で言った。しかしナナカゼは表情を変えない。
「ふざけてない。あなたより私のほうが強い。それだけ」
「言わせておけば…」
「いいから黙って、大尉さん。あなたは死にたがりかもしれないけど、今一人犠牲になって死んだって格好悪いだけだから。死んだら意味がないのよ。今あいつを倒さなきゃ意味がないの!」
ナナカゼは珍しく語気を強めて言った。さすがのハバキリも息を呑んだ。
「…分かった。死ぬなよ」
静かにそう言い残すと、ナナカゼはサーベルを構えて炎の巨人に飛びかかっていった。
「くそ!」
やり場のない怒りを覚えながら、ハバキリは歯を食いしばった。
「大尉! 白翼徒兵が来ます!」
考える暇もなく、ククリの声が耳に入ってきた。
「ハバキリ! とりあえず中に入れ!」
ハイロクが叫ぶ。ハバキリは舌打ちした。
「大尉!ここは私が引き受けます!」
ククリがハバキリの前に出た。
「すまん!」
ハバキリはククリに任せると、素早く踵を返してドアの方へ走った。ドアに入ったハイロクの背を確認した、その時。
「う!」
ハバキリの背中を物凄い衝撃波が襲いかかった。あまりの衝撃に、ハバキリは数メートルも飛ばされた。背負っていたヒモグリもハバキリの背から剥がされるようにして吹き飛ばされた。
直後、瓦礫のようなものと砂塵の嵐が視界いっぱいを覆い、方向感覚すら失うような状態になってしまった。
一瞬の出来事。視界が晴れると、辺り一帯は瓦礫の山になっていた。
「ちっ…ヒモグリ!」
返事はない。ふと隣を見ると、ククリが顔を覆いながらも立ち上がるのが見えた。そしてその向こう側には、あの巨大な炎の腕が、倉庫の床に埋まるように突き刺さっていた。
「あの馬鹿でかいのが、パンチでもしたのか?」
ハバキリが険しい顔で辺りを探る。すると巨人の拳の延長上に、死んだように倒れ込むナナカゼの姿が見えた。
「ナナカゼ!」
まさかあの拳をまともに食らったのか。ハバキリはぞっとする感覚を覚えた。
ナナカゼは細かく肩を震わせながらも、ゆっくりと立ち上がった。直撃は避けたか、しかし着ているコートはひどい破れ様で、額は赤い血で染まっていた。
「ったく…いきなり殴りやがって」
ナナカゼは額に垂れてくる血を左手で拭い、ギロリとした鋭い眼で炎の巨人を睨みつけた。
そして稲妻のように飛び出すと、軽やかなステップで巨人の腕を駆け上がった。腕は業火に包まれていたが、燃え移ることすら許さぬ速さだった。
「ナナカゼ…」
ハバキリはその様子を見て思わず呟いていた。勝算などあるわけがない。この強大かつ未知の敵に飛びかかっていく神経は、負けず嫌いという言葉では片付けられない。
「気狂いめ…どっちが死にたがりだよ!」
ハバキリはそう言って、歯を食いしばった。
ナナカゼはそのまま巨人の首筋を狙って、超高速の斬撃を見舞った。ところが巨人はもう片方の腕を素早く構えて、ナナカゼのサーベルを受け止めた。不気味な金属音が鳴り響き、ナナカゼのサーベルが巨人の腕に付けられたバングルに当たる。その勢いも尋常ではない。
「くそ!」
とたん、ナナカゼのサーベルは無惨にも真っ二つに折れてしまった。その勢いで倉庫の壁に激突したナナカゼを、巨人の炎の腕が襲う。
「ナナカゼ!」
ハバキリが思わず叫んだ。
巨人の腕は倉庫の壁ごとナナカゼを叩きつけ、その小さな体をそのまま外へ吹き飛ばした。
「そんな…」
ハバキリの横で、ククリが今にも泣きそうな声を上げた。あの様子を見る限り、ひとたまりもない。そのまま炎の巨人は倉庫を破壊し、ナナカゼを追うように外へと去っていった。
「くそ! くそ! くそ!」
ハバキリは激しく膝を叩いた。
「もう無理なのかよ…」
あんな強大な敵に、勝てる気など起こらなかった。もうどんな綺麗事も言えない。諦めるとか、そんな言葉を超えている。これが自分たちの運命だと、言い聞かせるしかないのだろうか。
ハバキリが深い溜息をついた。
「大尉…ヒモグリさんは?」
隣でククリが言った。そうだ、自分だけが項垂れている場合ではない。
「ヒモグリを…探すぞ」
ハバキリは立ち上がると、大きな声を上げながら、ヒモグリを探し始めた。
「ヒモグリ! どこだ!」
「ヒモグリさん!」
ククリもありったけの声を張り上げた。すぐにドアが開いてハイロクが顔を覗かせた。
「どうした?」
「ヒモグリが見当たらない。瓦礫の下敷きになったかもしれない」
「何だって?」
ハイロクが顔色を変えた。
ところが、詳しい話をしている余裕は無かった。
「大尉! 神兵が!」
ククリが叫んだ。
倉庫に開いた大きな穴から、神兵の大軍が入り込んできた。もう一刻の猶予もない。
「とにかく入れ!」
ハイロクが必死に叫ぶ。ハバキリはヒモグリを置いていくことができず、立ち止まったままだった。
「大尉!」
ククリがまた叫んだ。
「ハバキリ! 入れ! お前らまで死んだら終わりだ!」
ハイロクが声を枯らして叫ぶ。
「くそぉ!」
ハバキリは雄叫びのような声を上げ、扉の内側へと入った。ハバキリとククリが無事に入ったところで、ハイロクは急いで扉を閉めて施錠した。建物全体が激しく揺れている。
「いいか、この場所は例の特殊な金属で囲まれてる。お前らでも壊せない金属だ。神兵にも易々壊されるものじゃないだろう」
すぐにハイロクが説明したが、ハバキリの耳に届いたかどうか。ハバキリ自身、頭に血が上ったように、ただただ一点を見つめて荒く呼吸を繰り返していた。
「ナナカゼは?」
ハイロクが問う。
「あの巨人にやられてしまった…」
ククリがそう答えた。
「何なんだよ、あいつら! 俺たちが何したってんだよ!」
ハイロクも我を失ったように怒鳴り散らした。
「俺のせいだ…俺が残っていれば…」
ポツリと、力なくハバキリが言った。その言葉に、もはや誰一人応えられなかった。
その時だ。突然、ハバキリの携帯が鳴った。ハバキリは画面を確認するなり、慌てて電話を取った。
「ヒモグリ!」
電話の相手はヒモグリだった。
『ハバキリ…』
今にも消えそうな細い声に、その場の誰もが心臓を鷲掴みにされるような感覚を覚えた。
「どこにいる? すぐに助けに行く!」
『もう無駄だ。その必要はない』
「は?」
ヒモグリの答えを耳にして、ハバキリは眉間に皺を寄せた。
「ふざけるな! 助けに行くって言ってんだろ!」
『もう俺は動けない。瓦礫に……いいからよく聞け…』
ヒモグリの覇気のない声に、誰もが思わず言葉を失った。
『神々といっても、おそらく俺たちと同じ肉体を持った生命体だ。俺たちと一緒で、考えたり話したりできる。分かり合えないはずがないんだ。どれだけ犠牲が出るかは分からんが、必ず、話し合うことができる。どんなことをしてもいい。生き延びるんだ』
ヒモグリの言葉を一言も逃すまいと、全員がハバキリの携帯に集中していた。
『ハバキリ、ククリ、ナナカゼ……君たちには、本当に辛い思いをさせてきた。俺の一生を掛けても償いきれない。すまなかった…』
「何言ってんだ! 俺たちはあんたを恨んでなんかいない!」
ハバキリが答える。
『俺は幸せ者だよ。君たちに会えて本当に良かった…ありが……』
時折ノイズが混じるヒモグリの言葉に、ハバキリとククリが悔しそうに唇を噛んだ。ここにナナカゼはいない。
「おい、縁起でもねえこと言ってんなよ!」
割り込むようにハイロクが叫んだ。ところが電話のノイズは激しさを増した。
『…ハイロクか……とう……もう…む……生きる………きろ……』
そこまで聞こえたが、とうとう通信は切れた。誰もが愕然とした。
「くそっ!」
ハバキリが低い姿勢のまま、目を血走らせてドアへと向かった。
「おい、どこへ行く」
「助けに行くに決まってる!」
怒鳴るようにハバキリが言った。しかしハイロクはハバキリの手首をがっちりと掴んだ。
「やめろ」
ハイロクが鋭い目つきでハバキリの目を見据えた。
「放せよ!」
ハバキリが睨んだが、ハイロクの瞳には揺らぎ一つなかった。
「行くな、ハバキリ!」
「見殺しにはできない!」
「あいつの気持ちを無駄にすんな! ここでお前が死んだら、希望がなくなる!」
「今行かなきゃ本当に死んじまうかもしれないんだぞ!」
「お前があいつを見殺しにできない気持ちは分かる。だが俺もそれと同じで、お前をここで死なせるわけにはいかない! ヒモグリは俺たちに託したんだ! ドアの向こうじゃない。もうあいつは俺たちの中にいる! ここで俺たちが死んだら、それこそヒモグリは本当に死んじまうぞ!」
ハイロクは語気を荒げて叫んだ。
「……くそ!」
ハバキリは吐き捨てるように言った。今ここを出ても何もできないのは、自分が一番良く分かっている。ハイロクが静かに手を放すと、ハバキリの腕は力なく垂れた。
地面の揺れはますます激しくなった。もはや異常としか思えないほどの揺れだ。
「みんな、行くぞ! ここもいつまでもつか分からない」
ハイロクの声が響く。
ステーションには三機のシャトルが停まっていた。二人乗りの小さな白いシャトルだ。これに乗り込めば地下都市へと辿り着ける。皆、無言のままシャトルに乗り込んだ。
ハバキリもククリと一緒にシャトルに乗った。ベンチのような座席が二つ。二人は向かい合うように狭いシャトルの中に腰かけた。
「すまない…」
突然、ハバキリが謝った。
ククリは暗い表情のまま、何も言わずに俯いていた。
「俺がもっと…強かったら」
シャトルがゆっくりと動き出す。
「大尉のせいじゃありません。自分を…責めないでください」
震える声でククリが答えた。ただ座って、シャトルの動きに身を任せているだけの自分。自分が無力で、情けなくなって、怒りと悔しさと悲しみが混ざって、頭が破裂しそうだった。
「…みんな…傷ついた」
ククリの目から、大粒の涙が溢れた。それを見てハバキリは、はっとした。
「ク、ククリ…?」
「みんな…傷ついた…」
ボロボロと溢れ出した涙は、とめどなく、ククリの足元へ落ちていく。
「ナナカゼ、死んじゃったかもしれない……ヒモグリさんも…みんな死んじゃったかも…死んじゃったかもしれないよぉ……うあああ!」
もう自分でも抑えることができなかった。ククリは今までにないくらい、大きな声を上げて泣いた。
「ククリ…」
ハバキリは何も言えなかった。
ククリが倒れ込むようにハバキリの体にしがみついてきた。ハバキリはただじっと、子供のように泣きじゃくるククリを抱きしめた。
「ああぁぁ…どうしたらいいの…どうしたらいいの……ハバにぃ…」
ハバキリは胸が詰まった。昔から知っている。ククリは強い。その強いククリの心が、壊れそうになっていた。
ハバキリは、ただ必死に、ククリを抱きしめた。今はこうすることしかできない。そんな自分の弱さに、心底腹が立っていた。
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