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ひんやりとした雪解け水が、ナナカゼの頬を打った。
どれくらい時間が経ったか分からない。
左目の中に血が入り込んだのか、視野が赤くぼやけてよく見えない。それでも目を凝らして辺りを見回すと、自分がかなり危うい場所にいるのが分かった。クエストホールの端、わずかに突き出た岩の窪みに、埋まるように倒れ込んでいた。
「はぁ…くそ…」
そっと眼下を見ると、燃え盛る炎の巨人がちらりと見えた。あの巨人に激しく突き上げられたせいか、ナナカゼは底から百メートルほども高い場所にいた。
すると突然、大地が悲鳴を上げたように震えた。ナナカゼは慌てて岩肌を掴みながら、もう一度クエストホールの底を覗いた。巨人が炎の拳を地面に向かって何度も何度も突き立てているのが見えた。
「やばい…」
ナナカゼが掠れる声で一人呟いた。
巨人がクエストホールの底を突き破ろうとしている。ここに穴が開けば、直轄領の真上に出る。そこから神兵の大軍が侵入すれば、人類は為す術もなく全滅するだろう。
こんな相手に勝てるわけがなかった。まだ神の一人も出てきていないのに、その配下の兵士達にさえ全く歯が立たなかった。これで戦いを挑もうとは、トキグモやオリガイの算段がいかに的外れだったかよく分かる。だが分かったところで、もはやお終いだ。
ナナカゼは血の味がする唾を吐き出した。行くしかない。
「うう…!」
少し腕を動かしただけで激痛が走った。
「ああぁ!」
さらに腰から下が燃えるような痛みに襲われた。骨が折れているのか、神経が断絶しているのか、体の何箇所かは言うことを聞かなかった。
ひときわ大きな音と揺れがナナカゼを襲う。爆発音とともにクエストホールの底から土煙がもうもうと上がっていた。
「くそ!」
炎の巨人はついにクエストホールの底に穴を開けた。白翼徒兵たちが一斉に底へ向かって突き進んでいく。
「絶対……行かせない!」
ナナカゼは両眼を血走らせて腕に力を入れた。もう何が何でも止めるしかない。
「うごけぇぇぇ!」
絶叫にも近い叫びとともに、ナナカゼは体を前に進ませようとした。それでもナナカゼの体は少しも動かなかった。
「ああ…なんで……」
悔しさが全身を震わせた。激痛はとうに通り越して、何も感じなくなっていた。生きる気力が全て体の外へと溶け出して、深い地の底に沈んでいく。
死ぬ、とはこういうことなのか。
ナナカゼは息を整えて目を閉じた。体から感覚が消えていくようだ。
それからどれくらいの時間が経っただろうか。少しの間、眠ってしまったかもしれない。
「起きなさい」
突然、柔らかな声がした。可憐な子供の声だった。
ナナカゼは閉じていた目をもう一度開いた。誰かがすぐ側に立っている。
「誰…?」
力なくナナカゼが尋ねた。ふと上を見ると、ナナカゼのすぐ横に、一人の少女が立っていた。白く長い布をまとったような衣服と、薄い黄金色の長い髪。歳は十くらいだろうか。死にゆく自分の目の前に、本物の天使とやらが舞い降りてきたのかもしれない。
「そなたに聞きたいことがある」
ナナカゼの問いには答えず、少女は穏やかな口調で言った。少女らしくない、ずいぶん古風な言葉遣いに違和感を感じたが、反応する気力もない。ナナカゼは何も言わずに目を瞑った。
「人は神を必要としているか?」
短い問い。ナナカゼは目を瞑ったまま、静かに呼吸を繰り返していた。
「要らないわ、そんなもの」
ナナカゼは吐き捨てるように言った。少女の顔が曇る。
「でもね…」
ぽつりと出た言葉に、少女の目が揺れた。
「必要としている人は大勢いるけれど、神話に出てくるような神様なんかじゃない。人間が必要としてるのは目に見えない心の拠り所よ…」
ナナカゼの声は少し穏やかに感じた。
「太陽、大地、火や水…生きるために必要なものは全て神の手によって作られた。それでも神々を崇めることはないのか?」
「…つまり感謝しろと?」
ナナカゼは貶すように笑った。少女は何も答えず、ただじっとナナカゼを見下ろしている。
「まあ確かに……少しは感謝すべきだと思うよ。私みたいなクズは、ほんと感謝とかしないから……でもね…人間の中にも、いい奴はいっぱいいる。私は…そんな奴らをいっぱい知ってる」
言い終わるとナナカゼは咳き込んだ。血の混じった痰が出てきた。この人生に未練などない。
「なるほど」
少女が静かに言った。
「そなたは今、何を望む?」
「望む…?」
ナナカゼは少女の顔をギロリと見返した。そして大きく胸に空気を入れた。
「私がどうなろうと興味はない」
ナナカゼは先ほどよりも輪郭のはっきりした声色で言った。
「あの化け物たちの攻撃を止めたい……止める力が欲しい。それだけ。それが無理なら……いっそここで殺してよ!」
猛々しい叫び声が岩盤に響き渡った。
ナナカゼの口の端から、泡立った真っ赤な血が溢れ出してきた。それでも動じることなく、ナナカゼは少女をまっすぐに見ていた。少女はその血走った双眸を見つめた。
「…ん!」
突然少女がナナカゼの胸に優しく手を当てた。ナナカゼは驚いて身を引こうとしたが、体が思うように動かなかった。
「脊髄と肺の一つが壊れている。頭蓋と両足の骨もやられているな。じきに死ぬぞ」
そう言われてもナナカゼは眉ひとつ動かさず、ただじっと少女を睨み続けた。この少女は一体何者なのか。
「お姉ちゃん」
突然、少女の声はその姿に相応しいあどけなさを取り戻した。
「いい事思いついたー」
意外な言葉に、ナナカゼの顔が歪む。
「あたしの話、聞く?」
少女が尋ねた。ナナカゼはなぜか怖気付いた。すると少女はぐっと顔を近づけてきた。少女にしては妖艶過ぎる表情だ。
「もう一度だけ聞く。私の話を聞く気はあるか?」
再び少女の声は凄みを含み、冷徹な瞳がナナカゼを見下ろした。しかしナナカゼは凛とした目で少女を睨み返した。
もう迷いはなかった。
「言ってみなさいよ」
「アマツチの神喰らい 上」 完
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