6。邯鄲の夢

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「どう考えても、僕が体験していないような記憶が出てくることがありました。例えば、ある寺で、香凜は般若心経の写経をしてみたいと言ったんです。僕は香凜が写経をしている間、寺の外で煙草を吸っていました。その様子はちらりとしか見ていない。書き上がったお経を見ただけです。でも、さっきは日があまり射し込まない薄暗い書院で、きちんと正座をして机に向かい、筆を走らせている自分を確かに認識しました。墨の匂いすら感じたくらいにはっきりと…。これは香凜の記憶が僕の中で蘇ったものなのですね」 「その通りです。それがお二人の思考が共有化されたということです。今回は奥様の記憶が高木様の中に入ってこられましたが、逆の場合もあり得ます」 「逆というと…」 「高木様がこれから経験なされることを、奥様も追体験できるということです。別の言い方をするなら、これから高木様が経験されることを、奥様のメモリーデータに付加して、共有の記憶とすることができるということです。もちろん、全てではありません。希望なされる範囲内でということですが」  生身の香凜は病院のベッドで死の病と闘っていた。だが、僕はもう一人の香凜とメモリーバンクのオフィスで頻繁に会った。セッションを重ねるごとに、目の前に現れるイメージがどんどん鮮明に、より香凜らしくなっていった。着ている服やアクセサリーの細かいところまで、まるで映画のシーンのように完璧に再現できる時もあった。そこまで詳しく覚えていたなんて、自分でも驚きだった。  自分が覚えていたのではない。香凜が覚えていたのかもしれない。それが自分の脳の中で統合された可能性もある。
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