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小鳥の声に彼女はゆっくりと瞼を開いた。
「ああ、私はまだ生きているのか!」
彼女にとって嬉しいではないが、取り敢えず起き上がった。
気配を察した侍女たちが洗面道具を持って素早く部屋に入ってきた。顔を洗い口を漱ぎ、髪を梳いてもらうなどして身支度を済ます。続いて朝食が運ばれる。機械的に匙を動かすが口に含んだ粥には何の味もなかった。文字通り砂を噛んでいるようだ。食事が終ると特にすることはなかった。
“廃宮”と呼ばれるこの屋敷を訪ねる者などなく、彼女は一日中部屋に籠もり、ただ中庭を眺めて過ごしていた。下働きたちが真面目なためか庭は手入れが行き届いていて季節ごとに様々な草木を愛でることが出来た。夏に向かう今の季節は木々の緑が鮮やかである。
――あれは今時分だっただろうか。
彼女の脳裏にこの数十年の出来事が走馬灯のようによみがえった。
その日、爽やかな風と共に迎えの使者たちが彼女の家にやって来た。士人層とはいえ、貧しく権勢とは程遠い家門の娘に過ぎない彼女が王の庶孫の正室に選ばれたのである。庶系とはいえ王族と姻戚関係になったのだから本来ならば喜ばしいはずだが、彼女を見送る家族はもちろんのこと下働きの者たちまで暗い表情だった。
泣き崩れる母を父は言葉を尽くして慰めていた。兄も彼女の背を擦りながら「可愛そうになぁ…」と慰労するのだった。幼かった当時の彼女には、何故、皆悲しむのか理解出来なかったが、今ならその理由はよく分かる。父にも母にも兄にも彼女の将来が見えていたのであろう。
連れて行かれた屋敷で彼女は婚礼衣裳に着替え挙式した。その後、通された部屋で新郎と二人だけになった時に、夫となる人の姿をじっくり見ることが出来た。自身と同年代の少年だった。どことなく頼りなげに見える彼は王世孫の異腹弟の恩彦君だった。
王族とは名ばかりの存在である恩彦君家の暮らし向きは楽ではなかった。自分の家も貧乏だったため彼女はそんなことは特に気にならなかった。幸い夫君は優しかったが、周囲に流されやすい性格だった。遥か昔、王権がそれなりにしっかりしていた時代ならば、野心家でもない彼は平穏無事に人生を送れたであろうし、彼女自身もごく普通の士人女性の暮しを享受出来たであろう。しかし、朝廷内の権力争いの激しい昨今は王族というだけで様々な事件に巻き込まれてしまうのだった。
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