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それでも最初の数年間は穏やかな日々を過し、結婚三年目には待望の長子・濬(常渓君、後に湛に改名)も生まれた。
間もなく恩彦君は些細なことが原因で流刑に処されてしまった。この時は幸い三年後に許されて都に帰ることが出来た。
その後、夫君は官職を得て経済的にも安定してきた。そんななか、夫の祖父にあたる王・英祖が亡くなり、異母兄である王世孫が王位を継いだ。後世、正祖と呼ばれる王は、異母弟を気遣って下さり、そのお陰で暫くの間は彼女の家族は安らかな生活を過ごせた。朝廷の一員となった夫君は毎日張り切って出仕し、彼女はその姿を毎日有り難い気持ちで見送っていた。振り返ってみれば、この時期が彼女の人生で最も幸福だったのかも知れない。
この頃、権臣・洪国栄は自身の妹を王の側室に入れたが、すぐに亡くなってしまった。僅か十四歳だった。子供がなかった側室のために王は常渓君を養子にしてその祭祀を行うようにした。もちろん、洪国栄の働きかけもあったことだろう。恩彦君は、朝廷の有力者が後ろ盾になったことで息子や自分たち家族も安全になったと喜んだが、母親である彼女の思いは違っていた。権勢に近付いたことは却って子供の身が危うくなるのではないかと不安に思ったのである。また自身のもとから息子が離れていくことに寂しさも感じた。
残念なことに彼女の予感は的中した。洪国栄は自分の甥にあたる常渓君を次期王にしようと画策しているとされて朝廷から追われ賜死し、常渓君も結局自殺してしまった。恩彦君も江華島に流刑となり、彼女は結婚してすぐに配偶者を失くした嫁の申氏と二人きりの家族になって恩彦君の邸宅である良宮に取り残されてしまった…。
「…何だろう?」
外から聴こえ来る調べに彼女は我に返った。若い娘の声のようだが旋律は聞いたことのないものだった。柔らかな節回しはこの国のものとは異なっていた。彼女は心地よい調べに聴き入りながら、窓から外を見て声の主を探した。少し離れているところで掃き掃除をしている宮女が目に留まった。この娘が歌っているのだろう。彼女は侍女にこの宮女を呼んで来るようにいった。
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