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カランと乾いた音にわずかに顔を上げていらっしゃいませと言うのはもう半分、無意識である。
既に営業時間は過ぎ、夏であればそろそろ薄ら明るくなっているだろう空はまだ重く闇で、凍るような冷気が暖かくなり過ぎた室内をほどよく冷ます。
「悪いな、終わりがけに」
落ち着いた重低音の声に、水道をキュッと閉め手を拭きながら
「何にしましょう?」
と問えば
「ボンベイサファイア、ロック」
と、毎度毎度代わり映えのしない返事が返ってくる。手際よく作り黙って置けば、黙って一口飲み煙草に手を伸ばす。
週に一度起こるこの時間の流れは気がつけば半年ほど続いていて、何時のころからかこの空間が待ち遠しくなっていた。
「最近、どうだ?」
いつもと違うどこか言おうか言うまいか悩んでいるような声に、真意がわからないままに当たり障りなく
「今日は少し騒がしくさせてもらいました」
と言えば、ふっと息を小さく吐き呟くように口にのせる。
「いや、……ビルの話しは聞いてないか?」
「ビル? いえ、何も」
「……ここのビルのオーナーが夜逃げしたことは?」
「……いえ、全く。 もしかしてこのビル無くなるんですか? うわぁ、困ったな」
さほど困った風でない声色になったことは自覚しているが、さすがに困る。移転するとなれば色々と物入りだし、何より移転先に今のような古めかしい雰囲気を醸し出す場所が見つかるかもわからない。
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