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ウンウン唸りだした俺の前に、一枚の名刺がすっと差し出され、何気に見ていた俺はポカンと口を開けて名刺と男を交互にみた。
篠山興業、代表取締役篠山威弦。この界隈を一手に納めるやくざであることは有名だ。最も、顔と名前が一致したのは今であるが。
「移転先があるならいいのだが……」
何を言いたいのかわからず黙って先を促せば、少しばかり躊躇うようにして酒に口をつける。
「俺はこの店が気に入っている」
そしてまた口を閉ざし、今度は煙草を口にする。
「……ビルを買い取ってもいいと思っている」
陳腐な三文芝居を見ているような台詞に、俺は顔の筋肉が自分の言うことを聞かなくなっているのを感じた。ここにも店を気に入ってくれる人がいたのだと。店の先を心配してくれているだけなのに、極上の告白をしてもらったような気分に酔っているのだと。そして自分の言葉に照れたように酒を煽るこの男が可愛く見えているのだと。
「篠山さん」
俯き加減だった男が顔を上げる。思いがけず眼光鋭い男の目と合ったが、反らすこともせず見つめたまま、
「もしよければ、……お世話になります」
と言えば、それだけで間違いなく通じ
「わかった」
と返ってきた。いつもの時間の流れが戻ってくる。静寂と、揺ったりとした空気。いつもと何も変わらない。
男とはこれから長く深い付き合いになるだろうという確信以外は。
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