紫煙

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 部屋に漂う煙を目で追いながら、坂本はソファの背に身体を預けた。テーブルの上でスマホがアラートを点滅させている。送り主と文面は易々と想像できた。  46歳の誕生日を一人で迎え、間接照明の薄暗さと共に煙草をくゆらせる。四捨五入すれば50の大台になる年齢。新しいことを始めるギリギリのタイミングだと坂本は自覚していた。そして潮時であることも。始めることも断つことも「今」ではないかという強迫観念にも似た衝動。  充実した2年だった。だからこそ先延ばしにし続け、とうとう誕生日を迎えてしまった。踏切りをつけるために坂本は一人でこの日を過ごすことを選んだ。出張だと嘘を言い、帰る日が決まったら連絡するよと笑顔で続けた。そのどちらもせず、煙草と時間を過ごしている。  最後に深く煙を肺に入れると吸いさしを揉み消した。ブルーの灰皿に黒い燃えカスと茶色の葉が点々と散る。禁煙を決めた坂本にとって最後の一本。一つのことを断ち切るには保険が必要だった。禁煙できたなら、きっと諦められる……手を離すことができる。  坂本はスマホを手に取りタップしてメールを開いた。予想したとおり件名のないメールと見慣れた名前。その文字をそっと指でなぞる。しばらく画面を見詰めた後、その文字に唇を落とした。ぎゅっと目をつむったあと、迷惑メールと同じように開くことなく削除をタップする。気が変わらないうちにゴミ箱を空にするとため息がこぼれた。  まだ3本残っている煙草のボックスを握りつぶし放り投げる。きれいな放物線を描き捻じれた形のまま、30年近い付き合いの煙草はダストボックスの中に落ちカサリと音をたてた。 「大丈夫だ、できるさ」  誰も聞いていない独り言が紫煙に溶けていった。
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