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結城はぽつりと言った。
「真美は……あまり料理が得意じゃなかった」
「そうなのか?」
「ああ、だからわりと僕は帰宅時間が早かったし、料理を作ってね、上達したんだ」
「そうなのか……」
「彼女はいつも笑顔だったよ。びっくりするほど、おいしいって言うんだ。たまらなかったね」
「……」
結城はこほんと咳払いした。そして、春馬の胸元を見る。目を見るのが気恥ずかしそうだった。
「おいしいよ。春馬君」
「結城さん……」
「とてもおいしいんだ。本当に僕を思っているんだね……すごく丁寧な作りだ」
「あんたも同じでしょ」
「え」
驚いたのか、結城はぱっと顔をあげた。
「棚のわきのメモ、見ましたよ」
「あれか……恥ずかしいな。いつのまにか書き込んでみたいだ」
「そっすか」
「真美が植物状態になってから、生きるのに張り合いがなくて」
結城は自嘲するように苦笑した。
「君のおいしいをポイントのように稼いだ時もあった」
春馬は小さく笑った。
「なんだ、知らなかった。知ってたら、ちょっと厳しくしてたのに」
「いじわるだなぁ」
「素直すぎても、自分が気持ち悪いし」
二人の間で心が行き交う。波紋が広がる。悲しいことがあっても、笑ってしまうのだ。嬉しいことや楽しいことがあれば。
それは間違いだなんてことはないだろう。
――ふふっ
それは唐突だった。まるで笑顔の輪に加わるように、軽やかな笑い声が聞こえた気がした。
それはいつかどこか、夢の中で聞いたような声だった。春馬は驚きを目を見張るだけだったが、結城は眼を大きくし立ち上がった。
「真美……?」
「結城さん、どうしたんだ」
「今、真美の笑い声が……」
しかし今、この部屋には結城と春馬以外の姿はない。だけど互いに確信していた。真美は今、ここにいた。
そして幸せそうに笑っていた。まるで結城の復活を祝福するかのように。
「彼女は、いたんだ。僕を見てくれていたんだ……」
結城は眦から涙を落とす。今日は何度泣いたのだろうね。独りごちる。
けれどもその涙は、それまでの涙とちがって、とても温かい、乾いた土を潤す雨のようだった。
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