第1夜

3/18
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/73ページ
「蒼太(そうた)は結局まだ一度も鹿児島に行ったことがないもんなぁ。来年は高校3年生、大学受験で忙しくなるから今年のうちに行っておいてみてもいいと思うんだけどなぁ」  ビアグラスを美味しそうに傾けながら父さんは柔らかな笑みを僕に向けたが、母さんは少し困ったような顔をするばかりだった。  今日は8月13日。冷房の無い台所を満たす空気は生温く、麦茶の入ったコップは僕と同じようにうっすら汗をかいている。網戸の外に広がる暗闇からは昼間の強烈な太陽光に蒸された草いきれが時折流れ込んでくる。  僕は茄子とショウガのお吸い物を口にしながら眼前の母さんを眺めた。  鹿児島出身の母さんは、陶芸家である父さんとの交際をお祖母ちゃん──母さんの母さんに猛反対され、駆け落ち同然で父さんのいる名古屋に移り住んだ。  以来、母さんは決して鹿児島へ帰省しようとはせず、お祖母ちゃんと顔を合わせて仲直りすることも出来ないでいた。  鹿児島の女性は芯が強いと言われているそうだが、母さんもお祖母ちゃんも互いに譲れないものがあったのかもしれない。お祖母ちゃんは母さんの帰省をずっと待っていたというが、母さんは頑なに拒否し続けた。  初孫である僕が生まれた時、しびれをきらしたお祖母ちゃんは鹿児島から単身はるばるこの名古屋にやって来たという。  僕がお祖母ちゃんと会ったのはそれが最初で最後となった。ごく健康で病気もほとんどしたことがなかったというお祖母ちゃんは、その2年後に急病であっという間に天に召された。  生まれたばかりの僕にお祖母ちゃんの記憶があるはずもない。僕が生まれるよりもさらに前に亡くなっていたお祖父ちゃんと同様に、お祖母ちゃんは写真などの記録物と両親の思い出話の中にのみ存在している人物にすぎなかった。
/73ページ

最初のコメントを投稿しよう!