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「今更帰っても、ねぇ。帰る口実も永遠になくしちゃったし、兄夫婦とは名古屋に来てくれた時に会えるから……」
母さんは決して鹿児島弁を話さない。故郷と決別した当時の、鹿児島には戻らないという気丈なまでの潔さと決意の表れのようだった。
それでも心のどこかにあるわだかまりはそう簡単に消せるものではないのだろう。鹿児島の話題になると母さんの表情は決まって曇りがちになるが、そこにはお祖母ちゃんと仲直りするタイミングを永遠に失ってしまったという後悔がにじんでいるようにも思えた。
「口実なんでいくらでも作れるさ。蒼太に鹿児島での思い出を作らせてやる、っていうのも立派な口実なんじゃないかな」
「蒼太は勉強もだけど部活もあるから、ね」
母さんは助けを求めるような目で僕を見た。
「美術部は、夏はそんなに忙しくないだろう? せっかくの夏休みだ、部屋にこもってイラストとゲームばっかりじゃあつまらないだろう」
「……」
イラストやゲーム、それにマンガを含めた読書全般が好きで自他ともに認める内向的な性格の僕は、高校では美術部に所属している。趣味の話を思う存分することのできる仲間の存在は本当にありがたく、居心地はとてもよかったが、夏休み期間中は活動らしい活動がない。
もしかすると最も自由の身であるかもしれない高2の夏、青空と白い雲を尻目に部屋で黙々とイラストを描きゲームに興じている僕を、父さんは少し心配しているのかもしれない。
でも僕にはお祖母ちゃんを慕う気持ちも、鹿児島に対する郷愁も無い。そして母さんは帰省するきっかけを失ったままだ。
父さんは鹿児島への帰省を度々促すが、母さんだけでなく僕からも前向きな返事が出ることはなかった。
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