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「名前はなんていうの?」
「名前……」
刹那、サキの笑顔が僕の脳裏に去来する。僕は言いよどんだ。
「名前をつけていたりはしないの?」
「…………」
母さんはなんともなしに尋ねてくる。
僕は一呼吸置いたのち、スケッチブックの中の少女を見つめながら呟いた。
「サキ」
「サキ?」
その瞬間、母さんの表情にわずかな動揺の色が浮かぶ。
想定外の反応に、何かまずいことを言ってしまったかと僕は内心慌てながら母さんを凝視した。
「何?」
「……ううん、何も」
母さんは即座に落ち着きを取り戻すと、背筋を伸ばして穏やかな笑顔を作った。
「お風呂、入りなさいね」
「……うん」
母さんは何事もなかったかのように念押しをしてから静かに部屋を出てゆく。その後ろ姿を見つめながら僕は思案した。
──今、明らかに何かが母さんの心にひっかかったみたいだった。一体何だろう?
考えながらふとスケッチブックを見やると、手を置いていた部分が汗で歪んでいる。
一刻も早く風呂に入らねば、と立ち上がった僕はふと足を止めた。網戸の外から響いてくる清かな秋の虫の歌声がやけに心を掴む。
夏の終わりは密やかに、すぐそこまでやって来ていた。
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