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「良かったら、おじさんと少し話さないか?」
隣に座るよう目配せすると、
「『おじさん』……ですか」
くすりと笑み零れるさまは何とも控えめで好もしい。憂い顔に月を凝視めて、
「ルーシェン・ミィシェーレ、それが僕の名前です」
と、真隣りに立った。
「Michel……?大天使ミカエルとは恐れ入った。守護聖人よ、死の天使よ、その秤を以て人の魂を司ると言うなら、俺の愛する……愛、する……?」
芝居掛かって道化てみたが、愚かにも俺は口にするべき人の名を忘れてしまった。
ズルリと鈍く脳裡の奥深く掻き回される不吉な感覚が『大切なものを失おうとしている』と警告を発したが、それもルーシェンを見れば掻き消えてしまう。
月影を一身に集めるルーシェンの姿は大天使ミカエルを由来とする姓そのままに神々しく、思わず其の手を取って胸に抱き込んだほど蠱惑的だった。態勢を崩して砂に膝をついたルーシェンは驚いたのも束の間、嫣然と目を細め、馥郁たる花の香で俺をうっとりとさせる。
「無体はされないのではありませんでしたか?」
「君は無体とは思っていないのではないか?」
ルーシェンが夜目にも頬を染めたのが伝わる体温の上昇で判った。絡めた指と指に遠慮がちに唇を落とし、縋る手で胸に顔を埋めてくる従順さが愛おしくてならない。
「大尉……」
「グェーリィンヌでいい」
「ファーストネームでは呼ばせて貰えないのですね」
「ぇ?……あぁ、いや、慣れないだけだ」
取り繕ったが呼ばせてはいけないと思ったのは確かだ。俺を「ノワ」と呼ぶのは唯一人、脳裡に声はあるのに誰だか判らない、この男だけのような気がする……。
「今、どなたかを思い浮かべられましたね?」
「いいや?」
「嘘です。恋人ですか?」
「ルーシェン、妬いてくれるのかい?」
腕の中の小さな躰は小刻みに震えていた。若さとは何と情熱的なのだろう。
初対面の……いや、この子はとうに俺を知っていたようだが、それも海軍の入出港やパレードで見掛けた程度であろう中年男に懸想して、そのように震えるほど嫉妬に憤ってくれるのか……、生きていると奇妙な縁もあるものだ。
「……生きて、……いると?」
何かが引っ掛かって、けれどそれも、ルーシェンの紅い瞳を見ては吹っ飛んでしまった。
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