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耳元で動きを感じた。
微睡みの中、瞼を開く。視線の先に、あの人がいた。朝目覚めた時、一番最初に愛しい人の姿を映せること。
なんて幸せなんだろうか。
譲さんはぎこちない動きでベッドから出ると、俺を起こさないように気を遣っているのだろうか、一歩一歩ゆっくりとドアの方に向かって行った。
カーテンの隙間から漏れ入る日差しが暖かくて。幸せな空間の中で、譲さんが離れていってしまう。
待って、行かないで。
「――どこ行くんですか?」
咄嗟に引き止めるように声を発していた。背後から突然声を掛けられ驚いたのか、譲さんの方がビクッと揺れた。
声を掛けたのに、譲さんはドアノブを掴んだままこっちを向いてくれない。もどかしくて、再び問いかける。
「譲さん、どこ行こうとしているんですか? こっち向いて下さい」
「……と……、トイ……レ」
その返答に、一瞬拍子抜けした。必死な様子でベッドから出て、トイレを我慢していたんだろうか。いじらしいというか、それすらも可愛く感じてしまう。思わず笑ってしまった。
「っくく……トイレ? あんなに必死にベッドから起き上がってトイレですか? まさかずっと我慢していたなんて言いませんよね?」
俺がそう言うと、譲さんの視線が僅かに俺の方に向いた。
「譲さん、本当にトイレなら付き添いますから」
「い、嫌だっ、来るなっ」
良かれと思って言ったのに、強い口調で拒絶された。昨日あんなに愛し合ったのに、恥ずかしいのかもしれないけど、そんな言い方はないだろうと、苛立ってしまう。
「……どうして?」
苛立ちを隠せず低い声を発してしまう。そうすると、譲さんは逆にゆっくりと、いつもの口調で俺に返した。
「一人で、トイレくらい行けるから」
「じゃあ、トイレに行ったらすぐ戻りますね?」
「……喉が渇いたから何か飲んでから戻る」
「……そうですか」
流石にこれ以上はしつこいだろう。譲さんを見送って、まだその温もりが残る布団に潜り込んだ。
人肌の温かさにまたうとうととしてくる。譲さんの匂いがする。スーッと吸い込んで、自分の中に吸収する。
「好きだ――」
伝えたい相手はここにいないけれど、瞼の奥で譲さんを思い浮かべて、伝える。
心臓がドクドクと跳ねる。
あの人は、何でこんなに俺の心を揺り動かすんだろうか。
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