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幸せだったのは朝の束の間の時間だけだった。せがまれて行ったショッピングなんて、何一つ楽しく無かった。欲しいものは何だと問われても、たった一人しか思い浮かばない。金で買えるものなんて陳腐なものに過ぎない。かけがえの無いものは、ここにはない。
譲さんがいない。苦痛なだけだったが、大事な譲さんの家族だから無下にはできなかった。
離れ離れの時間が切なくて、俺のことを忘れて欲しくなくて、悪戯心で送ったメールに返信は無かった。
「孝文、どうしたの? さっきから携帯気にして」
美波に問われて、ハッとする。鏡の前でワンピースを合わせながら、俺を見ていた。
「ごめん、なんでもないよ。それ、凄く似合ってる」
「ほんと? 孝文がそう言うなら、買っちゃおうかなぁ」
本当に嬉しそうに、ワンピースを胸に当てた美波が笑った。少し前なら、この笑顔を見ても大して気にも留めなかったが、今なら分かる。好きな人に、認められること、褒められることがどれ程幸せであるかという事が。
「美波、それプレゼントさせて」
「……え!? 今日、誕生日じゃないよ?」
「良いんだよ。いつも美波やお母さんや、……譲さんに凄くお世話になってるし。お礼」
昨日美波がよく眠ってくれていたから、譲さんと心置きなく愛し合えた。
何より美波は俺に譲さんを引き合わせてくれた、言わば恩人だ。勿論恋愛とは異なるが、美波のことも、ある意味では大切な存在だと思う。
「ありがとう、すっごく嬉しい……。宝物にする」
「大袈裟だな、たくさん着てくれたら、それで十分だよ」
「もう、孝文――」
やり取りを見ていたのだろうか、女性の販売員が近付いて声を掛けてきた。
「良かったら、ご試着してみて下さいね。……ステキな彼氏さんですね、羨ましいです!」
そう言われて益々上機嫌になった美波は、意気揚々と試着室に向かった。その間、携帯を取り出して確認するも、やっぱり返信は無かった。
体感時間と言うのは何て分かりやすいんだろう。今、この時間が途方もなく長く感じる。
早く帰りたい。譲さんのいるところに。
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